Essay 出会いの旅

Alex Kerr アレックス・カー
東洋文化研究者。特定非営利活動法人 篪庵トラスト理事長。1952年米国生まれ。1964年家族と共に初来日。エール大学、英国オックスフォード大学卒業後、1977年より京都府亀岡市に在住し、日本と東アジア文化に関する講演、執筆などに携わる。

2004年から2010年京都で町家再生事業を営み、その後NPO法人「チイオリ・トラスト」の理事長として伝統家屋の修築保存活動、景観コンサルタントを日本各地で展開。著書に、『美しき日本の残像』(1993年新潮社、新潮学芸賞受賞)、『犬と鬼』(2002年講談社)、『世流に逆らう』(2012年北星社)などがある。

隠れ里の出会い

 約50年前、私が初めて日本に来た当時、都会に住んでいても少し郊外に出れば、きれいな山々があり春は新緑、秋は紅葉など四季の魅力を存分に感じることができました。また古い民家が建ち並んだ村や一面田んぼの見事な景色が広がっていて、どこに行っても美しい日本がありました。
 しかし、このような風景はここ50年で見事なまでに粗末に扱われ、 汚染されました。そのため、景色を見る楽しみが減り悲観的な思いで旅するようになりました。写真を見てきれいだなと思い実際に行ってみても、きっとどこかがおかしくなっているだろう、という苦しい心情が常につきまといます。
 だからこそ、何らかの理由によって手付かずのまま残された素朴で美しい村や町、田園風景などを見かけた時の喜びはこれまでにも増して大きく、涙が出るくらいうれしい時もあります。
 1971年に、白洲正子さんが『かくれ里』という本を出版しました。 この本は実に先駆的で、今でもその感動が薄れることはありません。白洲さんは目的地を設定して旅するものの、そこまでの道がはっきりと決まっていなくて、面白そうな場所などがあると、すぐに脇道にそれていたようです。
 偶然にも、『かくれ里』の初版は1971年で、僕がヒッチハイクで日本中をまわった年と重なります。その旅も白洲さんと同じスタイルで、乗せてくれる車の行き先に身を委ねて日本の田舎をまわりました。その旅の最後にたどり着いた徳島県の祖谷(いや)には、美しい山と茅葺き屋根の民家の集落があり、劇的な出会いとなりました。僕はそこで一軒の古民家を購入し、現在も通っています。
 つまり、『かくれ里』との出会いが、僕の人生の基盤(原点)になっているのです。
 今日では「かくれ里」の存在は白洲さんの頃よりもさらに貴重なものとなり、探すのにもかなりの努力を要します。幸い、私の住む関西(特に古都奈良、京都の周辺)は歴史が深く、「かくれ里狩り」には適しています。
 京都市街地を囲う周りの山々(北・東・西)にプロテクションがかけられており開発できないようになっているため、郊外には今でも美しく深い歴史を持ったかくれ里が残っています。
 先日、神護寺という古いお寺に行くため、京都の北西部(高雄から京北町)を旅してきました。神護寺には平安彫刻として力強い薬師如来が奇跡的に残っています。これは平安時代における彫刻の傑作といっても良いくらいのものです。また周辺の集落が素朴で美しい形のまま残っています。さらに進んだ先には、常照皇寺という古い禅寺があるのですが、ここの「九重桜」が見事です。実はこの常照皇寺については白洲さんも『かくれ里』の中で触れています。
 京都の南東方面にも意外な発見がありました。京都市街地から車で1時間ほど走ったところにI.Mペイ設計のMIHOミュージアムがあります。もう一つ、平安時代からの歴史を持つ浄瑠璃寺というお寺があります。ある時、MIHOミュージアムから浄瑠璃寺へと車で走っていたところ、宇治茶の産地と思しき美しい茶畑を発見しました。それは名前すらわからない土地でしたが、“現代の浄土”MIHOミュージアムと、“平安浄土”の浄瑠璃寺をつなぐ道中には、「日本の原風景が京都の近くにも残っています」という思いになれるうれしい出会いがありました。
 3つ目の出会いが、奈良の十津川村です。奈良・和歌山・三重の県境に位置し、この辺りには蔵王堂、熊野権現など修験道の聖地がありますが、山そのものにも神秘的な雰囲気が宿ります。その山の一番奥深くにあるのが十津川村です。祖谷との出会いに見た「日本の山の神秘」、そういったものを本土で見ることは少なかったのですが、この十津川村で同じ感動に出会うことができました。
 日本のまちがおかしくなったといえども、美しい村はまだまだ残っています。常照皇寺も、MIHOミュージアムと浄瑠璃寺との間にある茶畑に囲われた集落も十津川村も、全てこの2、3年の中で見つけた場所です。
 このような出会いは現在も続いているし、これからもあると期待しています。

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