沿線点描【播但線】姫路駅から和田山駅(兵庫県)

播磨から但馬へ。山に分け入り、川に沿い、兵庫県の南北を縦断

兵庫県の姫路駅から県北の和田山駅まで、約65キロメートル。播磨と但馬を南北にほぼ一直線で結ぶ播但線はほとんどが山の中を走る。車窓の楽しみは川と山、田園と村々の風景。そしてなによりは、心癒されるのどかな時間である。

列車は市川に沿って走り、生野駅を目指す。(長谷駅から生野駅間)

日本の近代化を支えた銀鉱山の町

 姫路といえば姫路城!ところが天守閣は改修中で、お目にかかれないのが残念。でも、平成26年の秋頃には、修復されさらに華麗になった姿を高架上を走る播但線の車内から拝見できる。

 市川に沿って寺前[てらまえ]駅まで約50分。ここで乗り換え、快いディーゼル音とともに、列車はトコトコと山間部に分け入っていく。小さな山々が折り重なり、緑の絨毯のように田園風景が広がる。車窓を眺めているだけで癒されていく。大きな岩がごろごろする市川の上流まで来ると、生野[いくの]駅だ。

 但馬地方の玄関口、生野はかつては銀の鉱山町。世界遺産の島根県の石見銀山が有名だが、生野もそれと並ぶ大銀山だった。1200年の歴史を有し、明治期には日本で初めての官営鉱山として、外国人技師の指導で日本の近代化を支え続けた。全盛期は1万人が暮らしたが、1973(昭和48)年に鉱山は閉山した。

 列車はふつうホームに対して左側通行だが、生野駅は右側通行で駅に停車する全国でも珍しい駅だ。駅の勾配や線形の都合上、蒸気機関車が左側の線路を走行するのが困難だったためで、それが継承されている。駅を降りて町を歩くとなんだか懐かしい感じがする。特に「口銀谷[くちがなや]地区」は、江戸から明治期の雰囲気が色濃く残る町並みだ。

 銀山の要人や役人、職員の宿舎のほか、鉱山町のかつての空気感がまだ残っている。職員宿舎の一棟が、生野出身で黒沢映画でおなじみの名優志村喬の記念館になっている。旧警察署や旅館など町の佇まいはレトロ。そして見かけたのが「生野ハヤシライス」ののぼり。「生野ハヤシライス部会」があり、町内の10数店が加盟する。理事の秋山浩之さんは、「山の中ですが、外国人の技師や鉱山職員が住んでいた生野は洋風でハイカラな町だったんです。社宅の職員の奥さんがふるまっていたのがハヤシライス。私も初めて口にした時は、あまりのおいしさにショックを受けました」。

 昭和30年代のハヤシライスはハイカラだ。そこで町おこしにと、10年前から生野ハヤシライスを始めた。口にほおばると、まろやかなソースの甘みが口の中いっぱいにふわっと広がった。

新井駅の近くにある羽渕鋳鉄橋。採掘された鉱石を製錬所に運搬するために架けられた鋳鉄製の二連アーチ橋。復元されたものだが、アーチ、手すりともに明治初期の美しい意匠。

生野銀山の鉱石を輸送するために作られたトロッコ道や連続する石のアーチなどは近代化産業遺産。

生野銀山「金香瀬坑」の坑道。掘り進んだ坑道の総延長は350キロメートル以上、深さは880メートルにも及び、採掘した鉱石の種類は70種類以上にもなる。

生野ハヤシライス部会理事の秋山浩之さん。「生野の町の風情を求めて訪れる人が増えてきています。ハヤシライスのおいしさをあらためてお客さんに伝えたい」と話す。

洋食屋のそれとは異なり、あえてケチャップとソースを合わせただけの昔のシンプルな家庭の味。

田園地帯を走る「銀の馬車道」のラッピング列車。「銀の馬車道」は、明治初期に飾磨港(現姫路港)と生野鉱山の間を結んだ馬車専用道路のこと。(鶴居駅から新野駅間)

全国に知られる和田山の伝統家具

 生野は分水嶺の町でもあり、観光案内所の人によると「ちょうど駅の下がそうらしいですよ」。ここを境に、市川は瀬戸内海へ、日本海へは円山[まるやま]川となって注ぐ。列車は川に沿ってさらに北へと走る。

 生野駅から約20分で竹田駅。ハイキング姿の人が目立って多い。皆のお目当ては竹田城跡だ。数年前に映画の舞台になって以来、訪れる人が急増したそうだ。駅の裏が城跡のある古城山[こじょうざん]で、仰いで目をこらせば石垣が見える。城下町の佇まいもいい。竹田城最後の城主・赤松広秀の菩提寺など四カ寺が並ぶ寺町通りがある。

 約600メートルの松の並木道に沿って流れる疎水のような竹田川には、鯉が口をパクパクさせて優雅に泳いでいる。旧街道沿いには白壁の土蔵や格子窓の古い商家、町家が並ぶ。かつては旅館や料理屋も多かった。仏壇屋や家具店の職人が匠の技を競ったが、時代とともに姿を消していった。それでも竹田や和田山といえば「日本家具」だ。

 山陰本線と合流するその和田山駅が播但線の終着だ。町を散策した後、全国的に有名な和田山の伝統産業の匠を訪ねた。400年の歴史がある和田山の家具は「とにかく頑丈やな、何世代でも使い続けられる家具」と、家具職人の山根亮二さんは言う。「若い頃は家具店だけでも20数軒あって、主に婚礼用の家具を製造していた。注文も多かったなあ」。

 が、やがて洋家具に押されるようになる。山根さんが働く会社でも家具職人は「もう私一人ですわ」。でも「家具づくりが好きなんやね。木の温もりが好きや。伝統的な日本家具をつくる機会は少なくなったけど、注文があればどんな家具でも目いっぱい頑張って腕ふるうで。和田山の家具は一生もん」。そう言って軽やかに笑った山根さんは、今年還暦だそうだ。

 姫路から市川、円山川沿いに約1時間40分。のどかな風景と心温かな人たちと出会う小さな旅だった。

和田山の家具職人、山根亮二さん。最近はお客さんの注文に応じて、椅子などいろいろな家具を作る。「椅子づくりは強度や座り心地など難しいけど、おもしろい」と話す。

竹田駅前の寺町通り。石畳が続き、その脇を清らかな竹田川が流れる。

一見駅舎には見えない古民家のような竹田駅の駅舎。駅のすぐ裏手が竹田城跡のある古城山。よく見ると、山の稜線に石垣が見える。

天空に浮かぶ城

秋から冬にかけての早朝、竹田城跡は雲海に包まれる。(写真提供 : 吉田利栄)

 朝霧の中に浮かぶ竹田城跡はまさに「天空に浮かぶ城」、「但馬のマチュピチュ」だ。郭とその石垣のみが残るが、この石垣は全国の城郭の多くを手掛けた穴太衆[あのうしゅう]の手による。

 竹田駅のすぐ西側にそびえる古城山(標高353メートル)の頂上にある竹田城跡は、虎が伏せているように見えることから「虎臥[とらふす]城」とも呼ばれる。城は室町時代に築かれ、後に秀吉軍の播磨攻めで落城。関ヶ原の戦い後に廃城となり、現在の姿で残った。雲海に包まれた城の美しさは以前からよく知られていたが、最近では全国から大勢の観光客が押し寄せて人の姿が絶えない。朝来市では「竹田城課」を新設したというほど、竹田城跡は今や但馬を代表する観光スポットだ。

 城跡に立って周囲を一望すると圧巻の景色。谷の向こうの桜の名所・立雲峡から眺める姿がまた実にいい。特に雲海に包まれる秋から冬の寒暖差の大きい早朝に眺めるその姿は、夢幻の美しさがある。

縄張りの規模は南北400メートル、東西100メートル。戦国時代屈指の山城。最後の城主赤松広秀が石垣を整備したと言われる。

標高353メートル、竹田城跡から眼下の竹田の城下町を見下ろす。手前に竹田駅が見え、その向こう、中央を横切っているのが円山川。

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