丹波富士・高城山の山腹から篠山盆地を見下ろす。眼下に旧山陰街道(京街道)が見え、その先の盆地のほぼ中央に篠山城下が広がる。

特集 丹波篠山

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歴史を伝える武家屋敷

 早朝、篠山城跡の天守台に立った。「丹波の雲海」には遭遇できなかったが、朝霧が龍のように山裾を這っていた。城下の町並みはむろん、篠山盆地をくまなく見渡すことができる。ひときわ秀麗な姿の丹波富士と呼ばれる山上には、戦国時代の丹波の覇者、波多野氏の八上城[やかみじょう]があった。

 天守台から一望すると、篠山が軍略的にいかに優れているかが分かる。 多紀連山と北摂の山々に挟まれた小さな盆地だが、京に近く、山陰道で丹後とつながり、大坂や播磨にも遠くない。 1609(慶長14)年、徳川家康は八上城を取り壊し盆地の中央の小丘「笹山」に、西国16ヵ国の外様大名を動員し、 半年ほどの突貫工事で城を築いた。

 豊臣恩顧の西国大名への睨みのほかに、財力を城普請で消耗させる狙いがあったというのはいかにも家康らしい知略である。 城づくりを指図したのは築城の名手・藤堂高虎で、小丘と平地を巧みに利用した平山城だ。天守閣は置かず防御機能に徹しあくまで実戦向けにつくられた城郭は、近世城郭の典型といわれる。その後数十年で城下の形態を整え、約100年を費やして城下町が完成したという。

『丹波国篠山城絵図』

1869(明治2)年当時の城下町を描いた絵図で、城下の地割、町割はほとんど現在と変わらない。城郭は二重の濠で囲われ、一辺が約400メートルの方形をしている。

篠山城跡南の埋門(うずみもん)

南角の石垣には「三左之内(さんざのうち)」の刻印がある。天下普請の総奉行を務めた池田三左衛門輝政のことである。

「大書院」上段の間・次の間

本丸には天守閣は築かれなかったが、二の丸には「大書院」が建てられ、その規模は二条城二の丸御殿に匹敵する豪壮を極めるものだった。1944(昭和19)年の火災で焼失したが、2000年(平成12)年に再建された。

 「町割はほぼ藩政時代と同じです」と篠山市教育委員会の植木友さんは言う。正保年間(1644年から1648年)の城下町絵図を照らし合わすと確かに現在と重なる。藩主は松平家から青山家の歴代14代が続いたが、明治維新で藩主は地位と身分を解かれ、城は廃却され、藩士も職を失って離散し、城下町のよりどころを失ってしまう。が、その後空襲にも遭わず、近代化の波にもさほどのみ込まれずに済んだのが幸いした。

 約400年を経て、景観が現在もそう変わらないというのは、まことに貴重なことである。1956(昭和31)年に城跡は国史跡の指定を受け、2000(平成12)年には篠山市民の長年の悲願であった大書院が甦ったが、町のシンボルの復元に市民から多額の募金が寄せられた。「城下町の景観は篠山の財産ですから」と西新町の武家屋敷の町並み保存に尽力する小林宗平さんは言う。

 小林家は青山家に仕えた家柄で、藩政時代から代々受け継ぐ武家屋敷で今も生活している。屋敷の傍に藩校「振徳堂跡」がある。藩校の生徒心得は「態度端正にして静粛・謙虚であること」。学問を志す者に地位身分は平等、他藩の藩士や庶民の子弟も無償で受け入れたという。「盆地という閉鎖性とは逆に精神は開明的」と小林さん。篠山藩は進取の教育で知られ、今の兵庫県立篠山鳳鳴高校がその伝統を継ぐ。

 藩校跡に佇んで、「景観とともにこの精神も守っていきたいですね」と小林さんはそうつぶやいた。

西新町御徒士(おかち)町通りの武家屋敷群

扶持三石の下級武士が住んだ住居が当時のままに残っているのは全国でもめずらしい。

長屋門の前に立つ小林さん。小林家の初代は12代藩主に仕え、その功績が認められて屋敷を賜ったという。小林さんは定年後に篠山に戻り、歴史的な町並みや景観の保存に取り組んでいる。

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