茶室「弄鋳軒」での点前。亭主は御釜師、大西家の16代清右衛門氏。所作は簡素で流れるように美しい。そうして客人をもてなす、「和敬静寂」(客人を和ませ敬い、心は清らかで何事にも動じない)の精神が、茶の湯の美学である。

特集 「もてなし」と「しつらい」の美 茶の湯の心

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千利休が究めた「わび」「さび」

 日本美術を世界に知らしめた功労者、岡倉天心は1906(明治39)年、ニューヨークで『茶の本』を刊行し、西洋列強に対して日本文化の優越性を説いた。
天心は、「茶の根底に流れる精神」を紹介し、これこそが「日本の美」であると断じた本書は、今日なお世界で読み継がれている名著である。

 日本における茶の文化の黎明は鎌倉時代。禅僧の栄西が中国から茶の実と喫茶の方法を持ち帰ったことに始まり、栄西は『喫茶養生記[きっさようじょうき]』に薬用としての茶の効用を記した。南北朝時代には、僧や貴族、武士や商人階級で茶を飲み当てる「闘茶[とうちゃ]」という遊びが大流行した。室町時代になると、茶売人も登場し、茶室という言葉も使われ始め、喫茶はしだいに習慣化していく。

 高貴な階級では、書院で豪華な茶宴が盛んに催され、贅沢な唐物の茶道具が重宝された。その一方、風流を求めて茶を嗜み、茶に精神性を見いだそうとする人物が登場する。「わび茶」の祖といわれる茶人・村田珠光[しゅこう]だ。その精神は絢爛を極めた安土桃山時代に珠光の弟子の武野紹鷗 [じょうおう]に、さらに千宗易[せんのそうえき]へと引き継がれてここに「わび茶」が大成する。宗易とは千利休の法名[ほうみょう]である。

 「一座建立[いちざこんりゅう]」という言葉がある。茶の湯における主人と客の一体感を表わす言葉だ。利休が究めた「わび茶」の精神とは、「一服のお茶のために亭主はさまざまな趣向、工夫を凝らして茶室をしつらえ、道具を組み合わせ心を尽くした点前でもてなす」ことであり、天心が西洋に知らしめた「茶」の根底に流れる「美学」とは、「亭主と客が一服の茶を介して一期一会の心を通わせること」である。その精神性こそが利休の「わび茶」の心である。

 それは「もてなし」と「しつらい」の美学であり、他に何の贅沢も必要ないと、 わび茶の精神は説く。「わび」とは「侘びしい」という形容詞にちなむ言葉で、「絢爛豪華」とは正反対に「未完成な状態」、「粗末で質素、簡素な様子」を指す。「さび」とは、時間の経過とともに「物の本質が枯淡な味わいとなってにじみ出る美しさ」をいい、「錆びる」に通じる。いずれも本質を究める美的な嗜好で、世界でも稀な日本人の美意識の一つである。

 利休が辿り着いた「わび茶」の精神と美意識は、つつましい草庵の茶室の佇まいをはじめ、茶道具の一つひとつにまで宿っている。「利休好[ごの]み」や利休自ら考案した「利休形[りきゅうがた]」と呼ばれ、安土桃山時代から遥かな時を超えて、それを今に受け継いでいるのが「千家十職[せんけじゅっしょく]」と呼ばれる京都の職家である。

『調馬厩馬図屏風(ちょうまきゅうまずびょうぶ)』(部分)。武士に交じって茶をたてる茶人が描かれている。戦乱の世、命の危険に晒されている日々のなかに「安心立命(あんじんりゅうみょう)」の境地を見出そうとして武将たちは「わび茶」を嗜んだといわれる。(多賀大社蔵)

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