斧屋の2階から見下ろした前栽(せんざい)と呼ばれる庭。
この庭は、家の中の風通しを良くする役目も果たしている。

特集 今に息づく暮らしと住まいの知恵 京町家

PAGE1/2

千年の歴史、都市住宅の原型と発展

 烏丸[からすま]通から三条通を西に入ってしばらく歩くと、古都の歴史が匂いたつような釜座町[かまんざちょう]という、古くは釜や鍋などの鍛冶職人が集住した町がある。ここに「斧屋[おのや]」という屋号の江戸時代の特徴的な町家がある。軒が低く出格子に虫籠窓[むしこまど]の、厨子[つし]二階という木造瓦葺2階建で、「一列三室型」の京町家の典型である。一階は通りに面して店、座敷に台所、そして庭と奥のはなれ。座敷と並行して、吹き抜けになった走り庭が続く。二階は天井が低く狭い厨子と中の間と座敷で、厨子という呼称は小さな入れ物という意味であるらしい。外観は、深い庇[ひさし]に洗練された一文字瓦、屋根は中ほどがふくらんだ桟瓦[さんがわら]のむくり屋根。

 斧屋のような京町家の価値は世界的にも評価され、ニューヨークのワールド・モニュメント財団(WMF)の助成で修復された。「町家は京都のアイデンティティ」と話すのは、斧屋の修復を担当した京町家ネット・京町家作事組の建築家。現在、市街地に残る町家は約2万8,000軒、市域全体で約5万軒だそうだが年々姿を消していて、「京町家は都市型住宅の原型。伝統的景観がなくなるのは大きな損失」と、町家と町並みの保存を強く訴える。

 京町家の誕生は平安時代中期とされるが、現在のような「うなぎの寝床」が完成するのは豊臣秀吉の都の土地改革の後だ。応仁の乱(1467年から1477年)の戦禍で更地になった碁盤目状の街区をより高度に活用するため、秀吉は短冊型に細分化し、名目的に町衆に自治をまかせた。その結果、間口の大きさに応じて税金が課されることとなり、狭い間口、奥行きの深い構造は、人口密集地に暮らす町衆の工夫と課税に対抗する知恵だったという。

 江戸期になると町家は都市住宅として規格化され、材料の標準化が進み大量生産する仕組みができる。一方、住み手にも都市生活者として厳しい約束ごと、しきたりが定められた。「上下(両隣)、むかふ(向かい)を見合わせ、町並みよき様」と、家の普請にも地域ぐるみで町並みの美観や、生活する上での一定のルールが申し合わされたのである。「通りに面して店や仕事場がある」「店と住居の職住複合の機能」「両側町(通りを挟んだ両側が一つの町内)」「高密度に住むさまざまな工夫」などを特徴とする京町家。町並みから秩序や佇まいのよさを感じるのは、そのためである。

 現在、市街の中心に残っている町家の多くは「どんどん焼け(蛤御門の変)」で焼失した後、明治以降に再建されたというが、それでも時代を重ねて受け継がれてきた町家の知恵と工夫に変わりはない。これが京都の伝統というものであろう。

「斧屋」の平面図。通り側の間口が5メートル、奥行きが11メートルの一列三室で、「うなぎの寝床」と呼ばれる京町家の典型。

「紫織庵(しおりあん)」の玄関に飾られたちまき。毎年、祇園祭に各山鉾の会所などで売られるちまきを買い求め、一年の疫病・災難除けのお守りとして玄関に飾る。

「斧屋」の吊床。簡素でありながら繊細な意匠が施されている。

「斧屋」は、厨子二階の典型的な京町家。

「斧屋」の店。三条通に面した格子から柔らかな外光が差し込む。

京町家の再生を通じて、伝統の技を後世に伝えたい 大工棟梁、荒木正亘さんに聞く 〈京町家作事組〉

都市なかの隣と接した限られた敷地一杯に家を建てる。これが京町家の条件で、現代の「在来工法」とは違い、独特の構造をしている。基礎の柱は石に載せるだけで土台に固定しない。「固めたらあかん」と京町家の棟梁、荒木正亘さんはいう。固めないから柔軟性があり、地震の揺れにも柱は折れにくい。柱などの部材は在来工法に比べて7割ほどの太さになるが、柱の数はむしろ多く、すべて屋根までの一本の通し柱を使う。しかも規格化されているので、古い部材でも使い回しができるという、都市住宅ならではの独自の技術が施されている。斧屋の修復を指導した荒木棟梁は、「きちんと手を入れ、修理さえすればいつまでも住むことができるのが京町家です。住み継ぐことは、先人の大工の技を継承していくことです。町家の修復を通じて若い人にこの技術を伝えていきたいです」と話す。

2階座敷の欄間の彫物。決して華美にならず、洗練された家主の細やかな美意識が見え隠れする。

これまでに「斧屋」など何軒もの町家の再生を手がけた荒木棟梁。

ページトップへ戻る
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ