Essay 出会いの旅

Hata Masanori 畑正憲
1935年、福岡市生まれ。東京大学理学部生物学科を経て生物系大学院に進む。1960(昭和35)年学習研究社映画局入社。記録映画製作に従事し、「われら動物みな兄弟」で第16回エッセイストクラブ賞受賞。1971年北海道厚岸郡の無人島に熊や馬を連れて移住。翌年、浜中町に移って「動物王国」を建国する。その後、動物たちとの心温まる交流を書き続け1977年第25回菊池寛賞を受賞。著書は「ムツゴロウの青春記」「ムツゴロウの動物交際術」など多数。

心つながる、わが博多

 私は博多の生まれだ。昭和10年、旧柳町で産声をあげたらしい。後に母は、必ず上に旧をつけるとよ、柳町とだけ言ったらいかんばいと言った。当時、柳町は派手やかな色町であったらしい。
 父は、大きな病院で代診をしていた。その名は、原サンシン。今でも、博多っ子なら誰でも知っている。
 50歳を過ぎ、私はモンゴルに滞在していたが、ホテルの食堂で、原先生、2代目に偶然お目にかかった。先生は、漢方薬の材料を研究にこられていた。モンゴルの草原で、博多の話に花が咲いた。縁は異なるものだ。
 私たち家族は、4歳の時、北満の開拓団に渡った。だから、幼い頃の博多の記憶はまったくない。ただし、満州の寒くて長い夜、両親は、博多の思い出をいく度も語った。母は川端ぜんざい。席に座ると名物ばあさんがやってきて、大きかとこまかと、と訊くそうだ。注文すると、銭ば先やんしゃいと手を出したという。今、空港で、川端ぜんざいは土産物として売られている。その前に立つと、見てはいない、往時の光景が胸に浮かんでくる。父は、博多の、もの売りの声をまねした。オキュート、オキュート。タイラーギのヒモ。その思い出にすがりつき、私は今でも平らぎの紐を探し求めて食べる。
 10歳の折、私は釜山から博多港に船で帰ってきた。船は、ひと晩中、荒波にもまれた。だが、博多湾に入ると、波が嘘のように静まり、日本晴れ。小さな島。松の緑。白い砂。なんとなんと、なんと美しいのだろうと、私は泣きじゃくった。大陸の荒っぽい光景ばかり見て育った私は、箱庭のように美しいと映った。いやそれよりも、生まれ故郷、博多との血のつながりを感じたからだろう。
 帰国してからは、汽車で2時間ばかりの所にある日田市に住んだ。やがて恋人が出来たが、田舎町ではデートなどもっての他だ。そこで、博多に出た。金など持っていないので、博多ラーメンをすすり、皿うどんやちゃんぽんなどを食べた。後に有名になった“屋台”にも並んで腰をかけた。博多はうまい、つくづくそう思った。
 私にとっては、博多は大都市だった。外国からやってくる絵画の展覧会を見たり、丸善に半日いて、洋書を選んだ。
 博多は、九州の文化の渦巻くところだ。五木寛之さんと麻雀をしていて、井上陽水やおいちゃん(南こうせつ)に声をかけて、博多会をやろうかねと彼が切出したこともある。けれどもこれは、もちろん実現はしなかった。
 うまかもん、それは博多にある。博多で夕食の席につくと、博多っ子としての血が騒ぐ。
 まず、海の幸。玄界灘の魚やイカが、そのまんまやってくる。イシダイのアライ、そしてアラ。私は、5月のスミイカが特に好きであり、万金を投じても惜しくない。
 フグだって、日本一。動物学科で共に学んだ友人が博多に住んでいるので、料亭に招待して貰った。博多っ子は、フグを愛している。口を動かす度に、うんとか、ああとか、うめいて食べる。
 川のほとりに、昔からの“水たき”の店が残っている。白いだしの中で煮た若どりは何とも言えず、鶏は、鹿児島の方で育ったシャモだと決まっている。
 日田で育ち、日田の高校を卒業したのだが、3分の1ほどの友人は、博多に出た。九州電力に就職したものもいるし、九大で先生をしているものもいる。
 「どうだい、今夜?」「いいねえ、まず、うまかもん」「まかせとけって」
 それで再会し、盃を汲みかわすのも博多である。
 もう一つ縁がある。ホークスタウンに、暖手の広場というのがあり、握手の手形が飾ってある。私のものもある。ライオンに噛み切られる前の、中指つきだ。

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