『放浪記』の中の一節、「海が見えた。海が見える。…」は、5年ぶりに東京から尾道に帰ってきた芙美子が、尾道水道にさしかかった汽車の車窓から見た風景を書いたものだ。

特集 旅のふるさとを求めて 芙美子の尾道を歩く

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小説家・芙美子を育てた心のふるさと。 海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。 『放浪記』より

 尾道駅を降りると、すぐ前が海だ。背後には千光寺山が海岸近くまで迫っている。山腹の樹々の間に家々が重なっている。麓からロープウェイに乗った。動きはじめると、甍[いらか]の家並みがみるみる足下に遠ざかり、その向こうに輝く海が見えた。「海が見えた。海が見える」。林芙美子の『放浪記』の一節を思わず口にしていた。

 向島[むかいしま]との間に横たわる尾道水道はまるで川のようだ。行き交うフェリー、漁船の波止場、造船所のドックや巨大なクレーンの奥に、瀬戸内海の島々が薄墨で描いたようにかすんで見える。千光寺山から見渡すと、町は山と海の狭間に東西に細く長く伸び、そして山手と海側の町をつなぐいくつもの坂道が尾道の特徴的な景観をつくっている。

千光寺山の中腹にある「おのみち文学の館」。尾道にゆかりのある文人たちの遺品などが展示してある。林芙美子の部屋には、愛用の万年筆、ペーパーナイフ、直筆の原稿などが展示されている。

千光寺山の最も高いところに建つ千光寺。朱色の本堂と鐘楼は、海沿いの市街地からも見える。尾道の代表的な景観の一つ。

 多くの文人たちがこの尾道の風景と風情を愛し、繰り返し筆をとった。千光寺山の山腹の「文学のこみち」には、松尾芭蕉、正岡子規、志賀直哉など尾道にゆかりのある文人たちの文学碑が並ぶ。林芙美子の碑は海と町を一望するところにあり、そこから眺める海は、きらきらと銀色に輝き、広々として清々しい。

 碑文にある『放浪記』の一節はこう続く。「…赤い千光寺の塔が見える、山は爽[さわや]かな若葉だ。緑色の海向[むこ]うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた」。ここで書かれた海とは、東京で秘書や給仕などの仕事をしながら小説家をめざす芙美子が、5年ぶりに帰郷する汽車から見た尾道の海である。

 芙美子は『放浪記』の冒頭、「私は宿命的に放浪者である」と書いているが、尾道だけは特別な場所だった。幼少の頃から養父と母に連れられて行商に歩き、木賃宿に泊まりながら九州各地を転々とした。そんな親子3人が行商の途中、ふらりと立ち寄ったのが尾道だ。1916(大正5)年、芙美子13歳。その後、19歳までの多感な6年間を尾道で過ごすことになる。一つの町に長く暮らすのは、芙美子にとって初めての経験だった。

 一家の生活は困窮していたが、芙美子の文学的才能を見抜いた小学校の恩師・小林正雄の後押しもあって、芙美子は高等女学校に入学した。男女の交際が一般的でなかった時代、因島の中学生・岡野軍一と堂々と恋を育んでいた芙美子。女学校2年の時、恩師・今井篤三郎と出会い、小説家へと大きく目覚めていく。港町・尾道の開放的な風土の中で出会った2人の恩師と恋人の存在が、ものおじしない芙美子の自由な感性をいっそう伸ばしたのかもしれない。

 『放浪記』の中で何度も登場する尾道三山のひとつである千光寺の赤い塔が見える。千光寺の創建は806年。三山のうち最も古い浄土寺は613年、聖徳太子の創建と伝わる。西国道随一といわれる伽藍を誇る西國寺は729年の創建。尾道は奈良時代から瀬戸内の重要拠点として栄え、中世・近世を通じて多くの豪商が競って寺社を造営し寄進した。これが「寺の町」の来歴で、現在残るのは25カ寺だが、往時には80以上もあったという。山手地区の「坂の町」の景観は、明治以後、成功した商人たちが別荘や邸宅を建てたのが始まりだ。

千光寺の赤い鐘楼から眺めた尾道水道と市街地。遠くに見える橋りょうは向島に通じる尾道大橋。

天寧寺へと続く天寧寺坂は白い土塀に挟まれた美しい石段の坂で、道幅の狭さから「恋人通り」とも呼ばれる。

 千光寺山から山道を下りる。急な階段が眼下の町まで続いている。山腹を這う狭い小路を進むと「おのみち文学の館」があり、芙美子の遺品を展示している。一段一段、石段を下りていると、向島の造船所から鉄を叩く音がする。カーン、カーンというのどかな響きが、いかにもこの町に似合っている。

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