Essay 出会いの旅

Morishita Yoko 森下洋子
バレリーナ。松山バレエ団理事長、団長。1948年、広島生まれ。3歳でバレエをはじめ、今年舞踊歴60年目を迎える。1974年、ヴァルナ国際バレエコンクールで金賞を受賞し、以後世界を舞台に幅広く活躍。ローレンス・オリヴィエ賞など受賞多数。芸術院会員。

光源氏の子孫

 瀬戸内海に流れ込む川のすぐ側、緑豊かな広島市江波[えば]町で生まれ、3歳の時にバレエに出会いました。体が弱かったので「何か運動を」とお医者様に勧められたのがきっかけでした。すぐに町を歩いていても踊りだすほどバレエに夢中になりました。
 ところが幼い頃からとても不器用で、教室で一人だけできないこともしばしばありました。でも何度も繰り返し稽古をし、できるようになると、見守っていてくれる両親は拍手をしてほめてくれ、それならばと、家の中に小さなバーをつけてくれました。
 小学校にあがり、広島公会堂で、東京の少女たちが踊る4羽の白鳥を見て、私もあんなふうに踊りたい、と思い、長い休みに上京してレッスンをうけるようになりました。当時広島から東京まで特急「あさかぜ」で12時間かかりました。私はレッスンが受けられる喜びでいっぱいでしたが、心配のあまり両親は東京で先生が送ってくださる「ヨーコ、ブジツイタ」の電報を受け取るまで一睡もできなかったそうです。
 東京でのレッスンを重ね、12歳になったときには、この仕事を一生の仕事にしたい、と決意し、東京に下宿し、バレエ漬けの生活をはじめました。そんな私を広島で迎える母はいつも、小鰯のお刺身を用意してくれていました。水のきれいな小さな町で、行商のおばさんがあざやかな手つきで、さっとさばいてくれる故郷の味は、傷[いた]みが早く、ここでしか食べられません。新鮮なお刺身をいただきながら、ちゃぶ台を家族4人で囲み、何も言わずにぽんと娘を信頼してくれた父母の深い愛情を感じ、東京での稽古の励みにしたものです。
 1970年、東京で松山樹子先生が踊る「白毛女」という作品を見て、そこに込められた平和への強い思い、凛としたたたずまいに鳥肌が立つほど深く感動し、翌年松山バレエ団に入団、1974年に、ヴァルナ国際バレエコンクールに、現在ともに松山バレエ団を率いる清水哲太郎とともに出場し、金賞を受賞、それをきっかけに世界各国で踊る機会をいただくようになりました。
 幼い頃に母が絵本で見せてくれ、ずっと憧れていたバレエの神様、ガリーナ・ウラノワや、バレエの女王様、マーゴ・フォンティーンら、人間としてとても美しく、素晴らしい方々に出会い、たくさんのことを教えていただきました。舞台に賭ける思いの深さ、全ての人に見せる細やかな心遣い、あたたかい愛情、舞台を通じて、肌で学ばせていただいたその生き方は、今も私の心に残る大きな宝物です。
 バレエに出会えたこと、バレエを通じて素晴らしい出会いをいただいたことに、とても感謝しています。広島の幼稚園の小さな稽古場でバレエをはじめてから今年で舞踊歴60年目を迎えます。この素晴らしいバレエを続けたい、という強い思いをまわりの方にあたたかく支えていただき、ここまで歩み続けることができ、感謝の気持ちでいっぱいです。
 広島の皆様にも、いつも変わらず力強く支えていただきました。広島に帰ると「おかえりなさい」「がんばってください」と親しみを込めて声をかけていただき、世界中どこでも「同じ広島の人間だから」と情熱をもって励ましていただきました。
 広島の街には命を慈しみ、明るく、情熱をもって、手を携えて歩んできた多くの広島県人たちの勇気と矜持があふれています。ここで育ったことを大切に、平和へ、そして豊かな社会への祈りを込めて、謙虚に、毎日1年生の気持ちで、新鮮に稽古に取り組んでいきたいと願っています。そして、バレエを通じて少しでも魂を磨いていけるように、常に汗を流し、共に学ぶ松山バレエ団の若い団員たちと心を合わせて、多くの人々に夢や希望をお届けできるような舞台活動を重ね、時代や社会が美しくかわっていく力になれたら、そんな思いを後押ししてくれる、まぶたに浮かぶなつかしい故郷広島の景色です。

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