Essay 出会いの旅

Niu Koichi 丹生 晃市
丹生都比売神社宮司。昭和30年東京生まれ。国学院大学文学部神道学科卒業。神社本庁に勤務。昭和60年から丹生都比売神社権禰宜兼務を経て、平成18年宮司就任。累代の惣神主家から九州に分家した血筋にあたる。また、和歌山の観光誘致活動や地元交通機関の活性化に取り組むなど、活動の幅は広範にわたっている。

神と仏が相和[あいわ]して1200年

私が東京から、和歌山に住まいを移したのは、平成16年春のことであった。折しもこの年、『紀伊山地の霊場[れいじょう]と参詣道[さんけいみち]』がユネスコの世界遺産に登録されることとなり、私が奉務する丹生都比売[にうつひめ]神社も、そのひとつに選ばれた。これを契機に、神社での奉仕に専念することにした。
 丹生都比売神社は、和歌山県の北部を東西に流れる紀ノ川から紀伊山地に山道を車で15分程登った標高450メートルの盆地、天野の里にある。天野は、高野山に登る表参道である町石道[ちょういしみち]の途中に位置しているが、明治以降に交通が発達してゆくなかで取り残され、最寄りのJR和歌山線笠田駅からバスが走るようになって、10年も経たない。
 随筆家白洲正子さんは、40年前の神社を訪ね、その著書『かくれ里』に「天の一角に開けた広大な野原…もしかすると、高天原も、こういう地形の所をいったのかも知れない。…ずい分方々に旅をしたが、こんなに閑かで、うっとりするような山村を私は知らない。」と書いておられる。日本の原風景とは、こんなところかと思うような山里に今も神社はある。囲いのない境内には、外鳥居を入口に、太鼓橋、禊橋[みそぎはし]、中鳥居、楼門[ろうもん]、春日造りの本殿、いずれも朱塗りの建物が並ぶ。
天野に住み、神社の社務所にいると、お坊さんの参拝者の多いことに驚く。修行の節目ごとに、自分で祈りを込めた護摩札[ごまふだ]を持って奉納にやってこられる。その時には必ずお経をあげ、最後に「南無大明神[なむだいみょうじん]」と神を称える決まりである。お坊さんの袈裟[けさ]には、神社の社紋と同じ巴の紋をつけている。高野山の寺紋は、巴と桐である。守護神である当社の神様に守られている印であるそうである。
平成16年9月19日、高野山の大伽藍[だいがらん]にある当社のご祭神丹生都比売大神を祀る「御社[みやしろ]」の遷座[せんざ]の祭があった。この御社は、弘法大師空海が当社の神の山を借り受け、真言密教の根本道場として高野山を開山した際に、守護神として祀ったものである。この遷座祭は、20年に1回の屋根替えと大修理の後に行われるもので、江戸期までは当社の惣神主[そうかんぬし](今の宮司に当たる職)が行ってきた。しかし、明治の神仏分離令により、長らく僧侶のみで祭りが行われてきたが、高野山より依頼があり、130年ぶりに関わることとなった。急ぎ、丹生家に伝わる古文書を紐解き、出来うる限り古えの姿の復活に力を尽くした。
 遷宮の当日は、深夜、堂塔のほのあかりのなか、屋根替えの間御影堂[みえいどう]に仮住まいされていた丹生都比売大神をはじめ四神、十二王子・百二十伴神が、当社の神職の祓いの後、高野山の大伽藍の中を200人余のお供の行列とともに進まれ、御社へ遷御[せんぎょ](お戻り)になった。その後、私が祝詞[のりと]を奏上し、神々に高野山の守護と国の安泰並びに世界の平和を祈り、管長猊下[げいか]がお導師[どうし]をつとめられ、僧侶による読経が行われた。
 このとき、ユネスコの言う世界遺産の登録理由の「神道と仏教の融合した文化的景観」がここにあると実感した。正月は神社に初詣をして、先祖の供養はお寺でという日本人にとって、神と仏が共存する信仰は当たり前のものであるが、世界の基準からみると、そうとは言えないのだ。
 この融和の精神を象徴する行事として、鎌倉から江戸時代まで600年間、国の安泰を高野山の僧侶が当社の神前で神々に祈る法会[ほうえ]が行われてきた。最新の研究では、高野山からの100人余の僧侶が、京都・奈良・大阪からの総勢30人からの楽人を伴い、壮大なスケールで行われた全貌が明らかになっている。今、平成26年の世界遺産登録10周年と平成27年の高野山開創1200年に向けて、この神々に捧げられた声明[しょうみょう]と舞楽[ぶがく]の融合した行事「舞楽曼荼羅供[まんだらく]」の復興を計画している。
日本人には、誇るべき宗教の融和の精神や、自然との共存の精神、異なる文化を受け入れる柔軟性があり、ここに、神と仏が融和した、日本人の祈りの原点がある。

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