Essay 出会いの旅

Kodama Kiyoshi 児玉 清
俳優、司会者、作家。1933年東京生まれ。学習院大学卒業後、東宝映画ニューフェイス13期に合格し、黒沢明監督の映画などに出演。その後、テレビドラマやクイズ番組の司会者などでも活躍。エッセイには定評があり、『寝てもさめても本の虫』『負けるのは美しい』『あの作家に会いたい』などがある。

西日本が好きだ

西日本が好きだ。と、いきなり書いてしまったが、土地柄も人柄も、僕は西日本の方が、なぜか心に馴染むといった感じなのだ。昔、もう60年も前、大学1年生の夏休み、僕は、憧れの地であった瀬戸内海を見たくて鈍行列車に乗って尾道駅を目指した。東京生まれの東京育ちの僕にとって、故郷を地方に持つ学生が羨ましくてたまらなかったのだが、たまさか当時手にした林芙美子著の「風琴と魚の町・清貧の書」を読んで、瀬戸内の町、尾道こそ僕の架空の故郷にふさわしいと勝手に思いこんでしまったからだった。
瀬戸内海に臨む坂の町、尾道。今では細かいことは作品の内容を含めてほとんど記憶の彼方へと飛んで行ってしまったが、山の上から眺めたキラキラ輝く瀬戸の海の景色の素晴らしさは忘れることがない。ここが、ほんとうの故郷だったら、と何度も父母を呪ったことも懐しき思い出だ。だから西日本ファン、西日本好きになったとは考えないが、その後大学を出て、ひょんなことから俳優の道に迷い込んでしまった僕の人生の中で、節目節目に登場する人々が所謂[いわゆる]西日本出身の方たちばかりなのだから不思議だ。と、ここまで書いて思い出したのは学生時代一年下だった、岡山県出身のHさんだ。太っ腹で心の温かい彼は義理人情に厚く一際キャラが立っていた。一学年下だったこともあって学生時代はさして深い思い出は出来なかったのだが、共に卒業して社会人となってからは、彼の活躍の目覚しさと相伴って沢山の思い出が作れた。卒業後、机一つで神保町ではじめた出版業がとんとん拍子で発展し、今や中堅のユニークな出版社へと大きく育ったA出版。学術部門をベースにしながら、意表を衝くといった企画で世間をあっと言わせるアイディアの妙と商いの旨さは、流石味豊かな岡山県人の凄さ、と、いつも感嘆しきりなのだ。
さて、ところで僕が大の西日本好きとなった大きな原因は、大阪の朝日放送にあった。1975年にはじまった「パネルクイズ・アタック25」は今年の3月で満35年となり、この4月からは36年目を迎えることとなったのだが、年を重ねれば重ねるほどこの会社への好きさが増してくるのだ。先ず、最初に僕がびっくりしたのは、この会社の上下の風通しの良さだった。上役と下役といった差が絵に描いたように傍からは見えないことだ。上役は品はあっても地位をことさら表面に出さないし、下役の人も決してへつらうことが無い。しかも下役の人が平気で上役に突っ込みを入れる。また、突っ込まれた上役の人もニコニコと言葉を返す。時にはドキッとするような辛辣な揶揄が飛び交うこともあるが、笑いの中で消化され、感情的に不快感などが露になることなどない。つまりは全員が大人なのだ。
それこそ最初のころはハラハラドキドキしたことが再三再四あったが、馴れてしまったら、呼吸が楽な上にこれほど爽やかなことはないと感じ入ってしまったのだ。会話の妙、ユーモア、本音を塗[まぶ]す言葉の巧みさ、可笑しみの中にひそむ鋭い指摘などなど誰もが本音を旨く笑いに隠しながら発言しつつ仕事の面では厳しく互いに切磋琢磨を続ける関西人の心のタフネスさとその大人振りに、僕は「アタック25」の回を重ねるごとに深く深く朝日放送に心をひかれ、次第に西日本大好き人間になっていったのだった。
しかもその間、奇しきことに、気がつけば、わが家を建築してくれた会社の社長も瀬戸内出身ならば、「アタック25」を最初に提供してくれたスポンサーの社長の方も同じく瀬戸内出身。心に浮ぶ思い出の人たちのほとんどが西日本出身の方たちであることに今更の如く驚く毎日だが、数年前、冒頭にあげた僕の友人、A出版のH氏の縁で彼の母校である岡山県立高校の同窓会からのお招きで、中・高の生徒諸君を前に講演をしたときに心の中を過[よ]ぎった感動が、何やら、そのすべてを解き明かす鍵に思えた。「賢さが人間の中に旨く溶けている」表現はもどかしいが、長年にわたって培ってきた文化の濃さから、人間として揉まれている。そんなところに少年のままの僕は、人間として深くひかれるのではないか?と。

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