「万葉の森 船岡山公園」。周辺一帯は蒲生野と呼ばれ、広々とした田園が続く。

特集 大海人皇子

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あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 額田王

天智7年(668年)5月5日、この前年に飛鳥から近江に都を移した天智天皇は、弟の大海人皇子[おおあまのおうじ]や宮廷歌人の額田王[ぬかたのおおきみ]ほか大勢の供と一緒に蒲生野[がもうの]に遊猟[みかり]した。

蒲生野は琵琶湖東岸に広がる草原地帯で、今も見渡すかぎりの田園が広々と続く。万葉時代、この蒲生野に宮廷占有の薬草園があった。男たちは野に鹿を追い、女たちは染料となる紫草[むらさき]などを摘んで一日を遊んだ。

日が入る頃、野原に設けられた天皇の御座所に人々が集い、宴が始まる。にぎやかに酒を交わし、語り合う。宴が一段落し、遊猟の一日をめいめいが順に歌を詠む。

この席で、額田王が詠んだ歌が「あかねさす…」である。この歌に大海人皇子は「紫草の にほへる…」の歌で返した。二つの歌は一対で、男女の恋心のあやを見事に詠みこんだ歌として万葉集のなかでもとくに愛唱されている。

蒲生野の船岡山遠望。天智天皇による近江遷都の翌年、宮廷儀式である薬狩(くすりがり)が蒲生野で行われた。その後の宴で大海人と額田王の2首の贈答歌が詠われた。

紫草のにほへる 妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも 大海人皇子

大海人皇子の求愛の行為を額田王はさらりと受け止め、そっとたしなめる。それにもかまわず額田王への想いを訴える大海人皇子。そこにロマンを感じる人も多い。しかし歌に託した二人の背景を考えるほどに謎めいてくる。

大海人皇子の人の目もはばからない表現が暗示的に読み取れるのだ。二つの歌には、天智天皇、額田王、大海人皇子の三者の微妙な関係が隠れている。額田王は大海人皇子のかつての妻で十市皇女[とおちのひめみこ]をもうけている。その妻が今は天智天皇の寵愛を受けている。妻をとった兄ではあるが、最高権力者である天智天皇の前で詠んだのだから、あまりにも大胆過ぎる。

そういう人間模様が歌に緊張感を漂わせ、さらには皇位継承という重大な問題がからんでくる。天智天皇(中大兄皇子[なかのおおえのおうじ])は、大化の改新を成し遂げた後、白村江[はくそんこう]で大敗を喫したが、大海人皇子はその兄の政治をよく助け、周囲からの人望もあつく、天智天皇の後継者だと誰もが信じて疑わなかった。ところが近江京遷都を境に、兄との関係がわずかずつ狂いはじめる。

さらには、天智天皇が我が子である大友皇子[おおとものおうじ]の成長とともに大海人皇子を退け、我が子への皇位継承を望みはじめたことも、大海人皇子の心中を乱したに違いない。その憤りが二つの歌に隠されているのではないだろうか。

系譜

額田王の「…野守[のもり]は見ずや」の野守とは天智天皇のことであり、大海人皇子の野心を察してなだめさとし、その返歌の大海人皇子の「人妻故に 我れ恋ひめやも」は、天智天皇への覚悟の上の挑戦を暗示しているようにも読めるのである。

壬申の乱に勝利した大海人皇子は673年、明日香村の飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位する。写真は伝飛鳥板蓋宮跡で、飛鳥浄御原宮はここにあったとされる。

蒲生野 周辺地図
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