Essay 出会いの旅

Hasegawa Shuhei 長谷川 集平
絵本作家・ミュージシャン。1955年兵庫県生まれ。76年『はせがわくんきらいや』(創作えほん新人賞)でデビュー。以来、絵本の間口と奥行を広げるべく児童書の枠を越えた活動を続けている。創作絵本多数。児童読み物に『見えない絵本』(赤い鳥文学賞)『デビルズドリーム』など。最近の絵本は『ホームランを打ったことのない君に』(日本絵本賞)『大きな大きな船』。ミュージシャンとしては神出鬼没の不気味ユニット「シューヘー」で独自のロックを展開している。長崎在住。京都造形芸術大学客員教授。

「記憶の改札口から」

 京都造形芸術大学で絵本の授業を受け持っているので、学期中はだいたい月に一度出講する。ぼくが住んでいる長崎から特急かもめで博多まで行って、新幹線のぞみに乗り換えて京都まで。  あの駅にもこの駅にも記憶の改札口がある。駅に停まるとぼくの心は改札口からさまよい出る。そこはページをめくるたびに開かれていく絵本の絵のようでもある。長崎から京都まで、絵本をめくって読み進み、帰りは逆に表紙までめくり返している。行きで見た絵が帰りには少し違う絵になっている。
 15年前、神戸で目撃した大地震の惨状は、その後描いた絵本『あしたは月よう日』のヒントになった。災害にアクセントを置くのではなく、そこにいた家族の日常を淡々と描こうと思った。失って初めてわかる大切なもの。震災前の、懐かしい神戸を少しだけ絵本の中にとどめることができた。  姫路はぼくの故郷。姫路城の周辺がぼくの生活圏だった。この十年ほどは実家と噛み合わなくて、ぼくが勝手に帰りにくくしている間に母が亡くなり、父が亡くなった。その時々の放蕩息子には新幹線から垣間見る姫路城は怒っていたり、さびしそうだったり、微笑んで手招きしていることもあった。
 去年の秋、父の葬儀のためにひさしぶりに降りた姫路駅は新装中で、ぼくを知らないみたいな顔をしているので戸惑ったが、気を取り直してきょろきょろ昔の痕跡を見つけては懐かしさを取り戻した。ぼくは青春の節目節目にここに立っていた。この駅から出かけ、この駅に帰った。
 北口を出ると真正面に姫路城。平成の修理で覆われる前の天守閣を近くで見ておけと父が招いてくれたような気がする。ぼくが小学生のころ、昭和の大修理の覆いが取られたまっ白のお城をカメラ好きの父があらゆる角度から撮影していたのを思い出す。ファインダーを覗く父に城は様々な顔を見せた。今のぼくより若かった父は夢中でシャッターを切った。城は人を映す鏡だったかもしれない。現在の傷んで汚れた姿は中年になったぼくだ。覆いの中で直され洗われるべきだろう。
 岡山に通ったこともある。岡山集平塾という絵本講座が10年ほど続いた。岡山には古代の巨石モニュメントがいくつも残っている。熊山にある階段状のピラミッドを見た時には予想外のスケールの大きさにびっくりした。あたりに霊気が漂う。伝来したゾロアスター教(拝火教)の祭壇ではないかという説があるそうだ。クマヤマと片仮名で書けば中にマヤが隠されていると、ぞくぞくするようなことを言う人もいる。古代にはぼくらが普段思っている島国日本と違うおおらかな国際性があったのだろう。
 桃太郎は吉備津彦命が鬼=先住民を征服した物語だという見解もある。吉備津彦命が攻め落とした鬼ノ城の石垣は古代朝鮮式だそうだ。鬼の首領は温羅[うら]と名乗った。ぼくらは岡山で始めた小さな絵本出版社の名を温羅書房とつけた。ロゴマークは熊山のピラミッド。長らく絶版状態だったぼくの絵本『はせがわくんきらいや』の復刊を皮切りに、業界の鬼っ子のような絵本出版を試みながら別事業で失敗して短期間で破綻。集平塾は長期休業に入り、めっきり降りる機会が減ったが、夜にでも岡山を通ると、追いやられた闇の中で今もつぶやく鬼たちの声に耳を傾けたくなる。
 岡山や広島を通る時に山の向こうの鳥取や島根に思いを馳せることもある。ぼくがギターと歌、女房がチェロを弾く自称チェロギタロック「シューヘー」で細々とライブハウス廻りの旅をしていたころ、なぜか日本海側の人たちと気が合った。いつまでもここにいたい帰りたくないと思うこと、しばしばだった。ぼくには親友がいる。あの山の向こうにあの人たちがいると思うと勇気が出てくる。
 上り下りのシートに身を任せ、このごろはよくモーツァルトを聴く。悲しみが追いつけないとだれかが言ったモーツァルトのアレグロの疾走感が、流れ去る車窓の風景によく合うのだ。

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