Blue Signal
March 2009 vol.123 
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うたびとの歳時記 photo
女児の健やかな成長を願って行われる桃の節句。 雛段に飾られるきらびやかな人形は、 古くは信仰の用具として誕生し、 海や川へと流されるものであったという。 難病と闘いながら、俳句に命の灯を燃やし続けた 俳人 三好潤子の句とともに、 風雅な習俗の起源をたどってみた。
病苦の中で、独自の句境を拓く
 三好潤子は、1926(大正15)年大阪市に生まれた。本名はみどり。明るく利発な少女だったとされるが、10歳で右腎結核、12歳の時には中耳結核を患う。医薬が乏しい時代のため、全快の見込みもなく、難病は生涯潤子を苦しめることとなった。1943(昭和18)年に大阪女学院を卒業。その後染色家の道に進む。潤子の人生に転機が訪れたのは、1947(昭和22)年。実家が営む旅館に強盗が押し入り、この時の所轄警察署の司法主任が俳人榎本冬一郎[ふゆいちろう]であった。事件が縁となって俳句の手ほどきを受けるようになり、やがて冬一郎が主宰する「群蜂[ぐんぽう]」に参加。潤子に俳句のおもしろさを教え、導いたのは冬一郎であった。潤子は天性の素質で秀句を読み始めるが、「悪」「魔」「毒」などのことばを好む異色の俳人であったという。さらに、山口誓子主宰の俳誌「天狼[てんろう]」へも投句を始め、1964(昭和39)年、天狼会友の第1回コロナ賞を受賞したのを契機に「群蜂」を脱会。以降は誓子に師事して研鑽を積み、天狼句会において光り輝く存在となっていった。潤子の俳句は生と死、命が大きな主題であり、またその作風には、常病人の体とは相対する強靱さがあるとされる。冒頭の句は、第1句集『夕凪橋』(1969年刊行)に収められた1967(昭和42)年の作品である。前書きには「鳥取」とあり、山陰地方のとある雛送りを詠ったものであることが分かる。
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素朴な容姿と因州和紙の鮮やかな彩色が特徴の流しびなは、民芸品としても人気が高い。現在は、町の老人会が主体となり、藁や紙粘土などの原料の調達から制作までを行っている。
流し雛緋の一連となりてゆく   潤子
信仰と重なり合う雛の歴史
 3月3日の桃の節句は、上巳[じょうし]の節句とも呼ばれる。上巳とは、陰暦3月初めの巳[み]の日のことで、古代中国ではこの日水辺に出て手足を洗い、桃の花を浮かべた酒を飲んで災厄を払う風習があったという。日本においても、上巳の祓えは古くから行われ、紙や草で人形[ひとがた]を作り、体をなでて身の汚れや災いを移し、川や海に流したとされる。『源氏物語』の「須磨」の巻には、光源氏が巳の日に陰陽師に祈祷をさせ、人形を舟に乗せて流す場面が描かれている。人形は、形代[かたしろ]や撫[なで]物とも呼ばれ、身代わり信仰の用具であった。

 一方、平安時代には、宮廷貴族の幼い子どもたちの間で「ひいな」遊びが盛んであった。「ひいな」は「雛」の古語で、小さな紙製の人形を使ったままごとのような遊びであったと伝えられる。禊ぎ祓いの風習とこうした遊びの要素とが結びつき、やがて雛を飾り供え物をして崇めるようになった。その頃の雛は、家々で手作りされた質素なものとされるが、中国から胡粉[こふん]を塗って作る人形[にんぎょう]技術が伝えられた室町時代以降は、しだいに美しく精巧なものへと発達する。その姿も神性を帯びた立ち雛から造形美を備えた座り雛へと変わり、人形の進化とともに、繰り返し飾る華やかな雛人形が定着していった。江戸時代の初め、五節句の制度が整えられたのをきっかけに、桃の節句は女児の成長を祝う年中行事として庶民にも広まっていった。
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息災への願いを雛に託して
 古来の人形信仰の名残は、今に伝わる雛送りの習俗に偲ぶことができる。鳥取県東部、日本海に注ぐ千代[せんだい]川上流に位置する用瀬[もちがせ]町。山間の静かな町には、江戸末期より連綿と受け継がれる「流しびな」の行事がある。旧暦3月3日の夕暮れ時になると、流域の家々からは桟俵[さんだわら]に乗せた赤い着物を着た一対の紙雛が持ち出され、そっと川に流される。この日流すのは、昨年に買い求めた雛で、家の神棚などに上げておいたもの。1年間のすべての災厄を紙の雛に移し、息災を祈るのである。桟俵には季節の花や菱餅の他、タニシやおいりと呼ばれる昔ながらのお供え物が添えられ、清流を下っていく。かつては全国で見られた素朴な風習も、今はわずかな地域に残るだけという。「流しびなの館」事務局長の田中倫明さんは、「災い除けの風習として、どの家庭でも欠かさずに行ってきたことが、用瀬に今も残る理由のひとつ」と話す。近年、郷愁を呼ぶ習わしは観光行事として注目を集め、着飾った少女たちが雛を流すようになり、その姿をカメラに収めようとする見物人で賑わいをみせている。先人から伝わる祈りの行事は、郷土が誇る文化であり、大切に守るべき伝統なのである。川面に浮かぶ雛の赤い装束。潤子が目にしたのは千代川をゆく「流しびな」だったのであろうか。行事が終わると、用瀬の町にも本格的な春が訪れる。
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平安時代には子どもの守り人形も登場。天児(あまがつ)は貴族階級、這子(ほうこ)は武家や庶民の間で用いられた。どちらも、幼児の災厄を祓うものとされ、天児は日本の人形の原点ともいわれている。(流しびなの館蔵)
 
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