Blue Signal
September 2008 vol.120 
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特集[活気を極めた商都大坂への旅 船場・中之島 大阪市] 秀吉が築き、徳川が育んだ商都
大坂町人の心意気と実学の精神
近代のモダン漂う船場・中之島界隈
天下の台所  船場と中之島界隈
425年前、豊臣秀吉が大坂城を築城して以来、
「大坂」から「大阪」に名が変わっても、
この都市は商都でありつづけている。
天下の台所と呼ばれ、
商都の歩みの物語をずっと記憶している町、
船場、そして中之島を訪ねた。
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江戸時代末期の大坂を描いた「浪花大湊一覧」。大川に架かる天満橋を中心に西側に広がる大坂の街は、幾つもの堀が巡り、多くの橋が架かかっている。(大阪城天守閣蔵)
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 大阪梅田の高層ビルから市街を眺めると、東には生駒山の山稜、西に淀川が注ぎ込む大阪湾の輝く海が見える。眼下には、南に真っすぐ伸びる御堂筋。市庁舎のある中之島の向こうは、大小無数のビルが密集する船場だ。商都の中心である船場の東の上町台地には、街を睥睨するように大阪城天守閣が座している。

 こうして俯瞰すると、大阪の地勢がよく分かる。織田信長の先見性はこの地の利をいち早く見抜いた。「大坂は日本一の境地で、主要都市にほど近く、海や川による交通に優れ、五畿七道の要として商業の適地」と、『信長公記』に記している。信長が、蓮如上人によって上町台地に築かれた石山本願寺の攻略に執着したのは、宗教弾圧というより、大坂に首都をつくろうとしたからだともいわれている。

 もっとも、信長が見た大坂は現在の姿とはまったく違う。その頃の大坂は、上町台地だけが南北に細長く盛り上がり、南の端に四天王寺、中央に高津宮、そして北端には石山本願寺があった。台地の裾を小さな無数の河川が流れ、現在の市街地の大半は、海面に見え隠れするような低地や砂州であった。船場もこの頃はまだ湿地帯の一部でしかなかった。

 大坂の地名はすでにあった。蓮如上人の「御文[おふみ]」の中の「摂州東成郡生玉庄内大坂トイフ在所」の一文が最初の記録だが、今日の大阪の基礎を築いたのは豊臣秀吉である。石山本願寺を攻略して間もなく信長は本能寺に倒れ、その遺志を秀吉が引き継いだ。宣教師ルイス・フロイスは「(秀吉は)大坂に城と市をたてることを決し(中略)…堺の町までつづけんとしている」と書き残している。

 1583(天正11)年に、秀吉は石山本願寺跡に豪壮な大坂城を築城した。「三国無双の城」と賞賛され、城郭の規模は現在の4〜5倍もあったという。そして城下町は、上町台地の開発を終えた後に、城の西側の砂州を埋め立てて開発した。その際、水運を活用するため、川を取り込み、堀を巡らせた。北に土佐堀川、南を長堀川、東は東横堀川、西を西横堀川。これらの川や堀に囲まれてつくられた街区が船場である。

 船場の由来は「船着き場」、ほかに戦場が転じたとする説や馬洗いの洗馬、また千波といろいろな説があるが、秀吉はこの船場を整備し終えて、築城からほぼ10年で商都の粗型をつくりあげた。そして秀吉配下の五奉行の一人、石田三成は大名たちに領内で生産する米や物産を大坂に運んで現銀化を勧め、商品経済を本格化させた。これによって大坂は諸国の物産の一大集散地として賑わう。しかし、大坂の陣で豊臣家は滅亡し、戦乱で船場は焦土と化した。

 戦後、大坂は徳川支配となり、松平忠明は復興に尽くすが、商都が蘇るのは、経済都市の重要性を認識した幕府が大坂を直轄領とした1620(元和6)年以後だ。幕府は豊臣期の大坂城に勝る豪壮な城を再建したが、城主は置かず江戸から派遣された城代が、町奉行と配下のわずかな武士で町政を司った。ゆえに武家が半数を占める江戸に対し、大坂はほとんどが町人であった。そんな自由闊達な町人文化によって、大坂はそれまでにも増して経済力を旺盛にしていった。

 中之島、北浜、堂島の河畔には大名の蔵屋敷が建ち並び、名だたる豪商を数多く輩出した。町人の気風を育み、全国の物産が集積する大坂は日本一の経済都市に発展していったのである。
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「新撰増補大坂大絵図」。17世紀末に描かれたもので、城の西側には城下町が整備され、碁盤目状の町割りが行われている。淀川は大川と名を変え、川は堂島川と土佐堀川に分流し、その中洲が中之島で、その南側が船場。(大阪歴史博物館蔵)
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現在の天満橋から船場・中之島のビジネス街を望む。水上交通の起点となる天満橋には、京を行き来する船着き場があった。
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堂島川に架かる鉾流橋から見た中之島の夕景。 水と緑に囲まれたこの景観は、パリ・セーヌ河畔に例えられる。
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「大坂夏の陣図屏風」。豊臣時代の大坂城が描かれている。黒々とした豪壮な造りで、その偉容はヨーロッパにも知られていた。(大阪城天守閣蔵)
秀吉が築き、徳川が育んだ商都
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本町橋上から見る東横堀川。多くの堀が埋め立てられ幹線道路となったが、東横堀川には今も14の橋が架かる。
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東横堀川に架かる高麗橋は江戸幕府が架けた公儀橋。江戸時代、この通りには三井越後屋など、大店の呉服店が並んで賑わいをみせ、なにわ随一の橋と謳われた。
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「豊臣秀吉木像」。秀吉は堺を外港にするという壮大な大坂の都市計画をもっていた。(大阪城天守閣蔵)
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「大坂名所図絵」(部分/江戸時代末期)。大坂城へ入る14代将軍徳川家茂の行列を描き、城下を俯瞰して克明に描写している。中央の大川に架かる大きな橋が難波橋で、その手前が船場。中洲が中之島。(大阪城天守閣蔵)
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