Blue Signal
July 2008 vol.119 
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豊岡駅 駅の風景【防府駅】
瀬戸の島々を見おろす最古の天満宮
周防灘に臨む防府は、国府として栄えた歴史がある。江戸時代には山陽道と萩往還が交わり、海運の要所でもあった。宿場町、天満宮の門前町として賑わった防府を訪ねた。
周防国の国府、東大寺再建の造料地
 律令時代、現在の山口県の西北部は長門国[ながとのくに]、東南部を周防国[すおうのくに]と呼んだ。「防州[ぼうしゅう]」ともいい、『日本書紀』には「周芳[すわ]」と記されている。周防灘に面して気候は温暖、土地は肥沃。そんな周防国の国府が置かれたのが防府[ほうふ]である。防府駅の東北2kmほどのところに国衙[こくが](国庁)跡があり、そこから旧山陽道を西へたどると周防国分寺がある。仁王門や金堂の堂々たる構えは天平の国府の栄華をしのばせる。

 国分寺は聖武天皇が8世紀に諸国に建立した官営の寺だが、周防国分寺のように創建時の遺構をほぼ維持している例は全国でも珍しい。七道伽藍は室町時代に全焼したが、その後、毛利氏の手厚い庇護をうけて復興、大改築されたものである。なかでも、金堂は奈良の東大寺の大仏殿を思わせて豪壮だ。

 防府市のはずれの大平山山麓には東大寺別院阿弥陀寺があるが、周防国はとりわけ東大寺との縁が深い。平安時代末期に東大寺が消失した折、その再建にあたっては周防国が御造料地と定められ、大量の材木がこの地より調達された。現在目にする東大寺は周防国の材木で建てられたものである。

 旧山陽道は、畿内と九州を結ぶ律令時代の街道で、道筋は今も残る。国分寺の長い土塀がつづくあたりはとくに古街道の趣があり、さらに西へとたどるとすぐに萩往還[はぎおうかん]と交わる。関ヶ原合戦後、萩に転封した毛利氏が参勤交代のために整備した街道で、萩と瀬戸内の港、三田尻[みたじり]とを結ぶ。江戸時代、東西南北に街道が交わる宿場町は、人の往来が途絶えず大変な賑わいだった。しかも、防府天満宮坂下の門前町でもあり、現在でも防府は天神さんの町である。
 
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京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮とともに日本三天神のひとつとされる防府天満宮。 町を見守るように高台に建つ天神さんは防府のシンボルといえる存在。
イメージ 防府駅の東北、住宅地のなかにある周防国衙跡。国衙とは大化改新後、国づくりのために全国に置かれた役所であり、防府は周防国の政治の中心だった。
イメージ 防府は歴史や文化とともに、瀬戸内の穏やかで美しい自然も楽しめる町だ。
地図 旧山陽道沿いにある周防国分寺は、創建当初の境内に今でも伽藍が残る全国でも珍しい例。本堂は国の重要文化財、楼門は県の有形文化財の指定を受けている。
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天神さんの町にしのぶ毛利氏の栄華
 防府天満宮は、防府駅のほぼ真北に位置する小高い天神山の南麓にある。京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並ぶ三天神の一つだが、創建は最も古く、菅原道真公没年の翌904(延喜4)年である。日本最初の天満宮にはこんな縁起が残っている。藤原氏の計略で京都から大宰府へと左遷される海路の途中、道真は防府の浦に立ち寄りしばし逗留した。

 その滞在中に世話になった周防国の豪族で、同じ一族の土師[はじ]氏に「身は筑紫にて果つるとも、魂魄[こんぱく]は必ず此の地に帰り来らん」と告げて、道真は大宰府へと赴く。その後、道真が亡くなった時、浦には光が立ち、酒垂山[さかたりやま](天神山)に紫色の雲がたなびき、魂が帰られたのだ、と松崎の地に社をつくり道真を祀ったことから、古くは「松崎天神」とも呼ばれた。例年、正月の参拝客は約60万人。駅から天満宮にいたる通りは、山口県内外から合格祈願、家内安寧を託して長い人の列がつづく。

 俳人、種田山頭火の生家も近くにある。「分け入っても 分け入っても 青い山」…街角や路地裏など町のいたるところで山頭火の句碑に出会う。防府駅の南側は、瀬戸内海に臨む大小の入江からなる港町である。三田尻は萩往還の一方の拠点。古くから水軍の根拠地で海運の重要な港である。付近には藩の御舟倉[おふなぐら]跡や、歴代藩主が参勤交代の折の宿舎とした御茶屋(英雲荘)があり、また播州赤穂と並ぶ塩の生産地で藩財政を支えつづけた三田尻塩田も復元され公園になっている。大正時代、毛利氏が邸宅(現・毛利氏庭園、毛利博物館)を防府に構えたのはこの地の風土を慈しんだからという理由が分かる気がする。それほどに風光明媚な地である。
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漂泊の俳人、種田山頭火(1882〜1940年)は防府天満宮近くで生まれた。写真は生家跡。
イメージ 町中にはいたるところに山頭火の句碑がある。写真右の句は「晴れきった空はふるさと 育ててくれた野や山は若葉」。
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防府天満宮のすぐ近く、旧山陽道と萩往環が交わる宮市は、宿場町として栄えた場所。宮市本陣兄部家[みやいちほんじんこうべけ]は江戸時代には西国大名が参勤交代の宿として利用した。たたずまいは当時と変わらない。
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毛利氏庭園は旧萩藩主毛利氏の邸宅で国指定の名勝。回遊式の庭園内は四季折々に彩り豊かな景観が楽しめる。また邸宅の一部は毛利博物館として公開され、毛利家に伝わる数多くの美術品が収蔵・展示されている。
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町の南、三田尻では江戸時代から約260年にわたり塩づくりが行われていた。三田尻塩田記念産業公園には入浜式塩田が復元されており、当時の塩づくりのようすを知ることができる。
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