Blue Signal
November 2007 vol.115 
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大田市駅 駅の風景【紀伊田辺駅】
熊野古道が通るエコロジーの聖地
和歌山県南部の太平洋を見渡す田辺市は、気候温暖で海と山の風光に恵まれた町だ。
熊野詣の拠点となる町には
史跡が数多く残っているが、
今日のエコロジーの先がけになった
自然環境保護の聖地でもある。
伝承される、英雄・弁慶のふるさと
田辺は「口熊野」と呼ばれた。熊野詣が盛んな頃の、熊野への入り口という意味だ。現在でも京阪神方面からは紀伊田辺駅が熊野詣への玄関口になる。中辺路を経て熊野三山に向かう人はここで降りる。

駅前で出迎えるのは、薙刀を構えた立派な弁慶像だ。京の五条大橋での牛若丸との出会い、源平合戦での武勇伝、主人である源義経とともに非運の最期を遂げた怪力無双の荒法師。今なお数々の英雄伝説が語り継がれている弁慶の生誕地が田辺だと言い伝えられている。弁慶が産湯に使ったという井戸や産湯釜も残っているが、史実としての弁慶には謎が多く、生誕地は他にも諸説ある。

田辺説の根拠は、室町時代に書かれた『義経記』で、その中で弁慶は熊野別当の嫡子だとされている。また『御伽草子』の「橋弁慶」では熊野別当湛僧[たんぞう]の子であると記されている。別当は熊野詣を采配した修験者たちの頭で、湛増は歴史上実在の人物。壇ノ浦の合戦で源氏に勝利をもたらした熊野水軍の長だ。そして『義経記』によれば、熊野詣途中の都の姫君との間にできた子だと伝えている。

怪僧らしく、弁慶は母の胎内に18カ月、生まれた時すでに髪は長く歯が生えそろっていたという。話の信憑性はともかく、弁慶が田辺のシンボルである事実は疑いようがない。
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天神崎の岩礁にぽっこりと立つ丸山は田辺の代表的な景観。ナショナルトラスト運動により自然が守られた天神崎一帯では、陸と磯と海が一体となった貴重な生態系を形成している。
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イメージ 電車を降り駅を出ると弁慶像が勇壮な姿で出迎えてくれる。
イメージ 町中には弁慶にまつわる史跡が点在する。写真上は田辺市役所の脇にある弁慶産湯の井戸、下は扇が浜公園にある熊野水軍出陣之地の石碑。
イメージ 町中に残る道分け石。田辺は熊野詣・中辺路の起点であり、旅籠が建ち並び、参拝者で賑わった。
イメージ 町の北西にある出立王子はここから深い山へと向かう参拝者が潮で身を清める潮垢離[しおごり]の儀式が行われていた場所。
地図
古来より交通の要衝として栄えた田辺。熊野詣、中辺路の起点となる紀伊田辺駅は、今も多くの参詣者で賑わう。
南方熊楠がこよなく愛した田辺の自然
弁慶にまさるともおとらない傑物で郷土の誇りが南方熊楠(1867〜1941年)である。世界が認めた博物学の巨星、熊楠は晩年を田辺で過ごした。

熊楠の旧居と「南方熊楠顕彰館」が、駅からそう遠くない中屋敷町の閑静な住宅地にある。今でいう百科事典、「和漢三才図会」105巻を幼くして写本し、少年時代に十数カ国語を使いこなしたという非凡の才能は周囲を驚かせた。生涯にわたる研究の数々は今日でも偉業として世界的に高く評価されている。そんな熊楠が慈しんだのが田辺の温暖な自然と温和な人情だった。

夕陽百選に選ばれている田辺湾に熊楠が慈しんだ二つの自然がある。熱帯・亜熱帯の植物が生息し、生態系上貴重な「神島[かしま]」(国の天然記念物)の保存に熊楠は尽力した。もう一つは熊楠が自然観察によく通った、湾の北側に突きだした天神崎だ。天神崎では陸と磯と海の動植物が一つの生態系をつくっている。この貴重な生態系を、開発寸前の危機から救ったのはナショナルトラスト運動だった。この運動は日本における自然保護活動の先がけとなり、天神崎の名はエコロジストの聖地として世界的に知られている。

市街地にほど近い距離に、貴重な自然が現在も息づいているというのは驚きである。
南方熊楠旧邸の書斎。晩年の熊楠はこの邸宅で研究に没頭した。 イメージ
隣接する南方熊楠顕彰館には熊楠の所蔵品や映像資料などが展示されている。 イメージ
白浜方面を望むと田辺湾に神島[かしま]が浮かぶ。神島は希少な植物の宝庫で南方熊楠がこよなく愛した場所。国の天然記念物に指定されており、現在は上陸できない。 イメージ
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豊かな山の恵み、紀州備長炭
駅から扇ヶ浜にまっすぐに伸びる田辺大通りにある闘けい[とうけい]神社は、弁慶や湛増、熊楠とも関わりが深い場所だ。平安の末期、弁慶の父親とされる湛増は神社の境内で、源平合戦で源氏か平氏のいずれに味方するかを紅白の鶏を闘わせて決めたという故事がある。また、熊楠は神社の森でよく植物観察をしていたそうだ。

神社から南へ歩くと田辺湾に出る。田辺湾は『日本書紀』に「牟婁津[むろつ]」という名で登場する歴史的に古く、由緒ある湾で、「牟婁の湯」と記されているのは町の対岸に見える白浜温泉のことだ。そして湾沿いに西へ、田辺港の方に向かうと会津川がある。会津橋のたもとにある浄恩寺の境内には、備長炭の生みの親、備中屋長左衛門の墓がある。鋼鉄と同じ硬度をもつ備長炭は和歌山県の特産品で、炭焼の技術は県の無形文化財。田辺は備長炭の発祥の地でもあるのだ。

備長炭の炭焼き技術は、江戸元禄の頃に右会津川の上流、秋津川の里周辺で誕生したとされるが、全国にその名を知らしめたのは備中屋長左衛門という紀州田辺藩時代の商人だといわれる。長左衛門は備長炭を江戸や上方へ出荷し、藩の財政を多いに潤わせた功労者で、後に深見長左衛門と名を改めて田辺藩の大年寄になったということである。

弁慶、湛増、熊楠、備中屋…彼らは町の歴史の語り部だが、田辺の魅力はやはり、昔と変わらぬ豊かな自然に尽きるだろう。
熊野水軍の伝説が伝わる闘けい神社。弁慶の父と言われる熊野別当湛増が源氏と平氏のどちらに味方するか、鶏を闘わせて占ったことが名前の由来とされている。境内には弁慶と湛増の父子像が建っている。 イメージ
備長炭は和歌山県の特産品の一つ。発祥地の右会津川上流の山中に、備長炭の歴史や炭焼きを見学できる紀州備長炭発見館がある。数人の仲間とここで備長炭を焼く榎本秀夫(68才)さんは年々少なくなる炭焼きさんの一人。「大変な仕事ですが、身体の続くかぎり伝統の炭焼き技術を守っていきたい。若い人に継承したいが、どこも後継者不足なのが残念です」と話す。 イメージ
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