Blue Signal
July 2007 vol.113 
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特集[近世御城下への旅 彦根] 西国を睨[にら]む井伊家の居城
徳川の威武、彦根山に聳える
守り残された総構[そうがま]えの御城下と井伊家の藩風
聳える蒼天の天守、彦根城四百年
戦国の乱世、
近江国には幾多の城が築かれた。
なかでも彦根城は、400年の歳月を経て
なお戦国時代の城郭の姿を堀の水面に映す。
その優美な姿に歴史をたどり、
歴代藩主が培った文武の藩風に触れる。
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琵琶湖に臨む中央の台地状の山が彦根山。山頂部の土を削って城を築く平山城は近世城郭建築の特長。すぐ右手の小高い山が石田三成の居城があった佐和山。
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天守閣の白壁が青空に映えていっそう白くまぶしい。堀端から見上げる城は豪壮というよりも、典雅で優美という表現が似合う。琵琶湖を望む彦根山(136m)の山上に聳[そび]える彦根城。400年前の築城時の姿をほぼそのままにとどめる彦根城は、近世城郭建築と藩政時代の城下町のようすをうかがい知る貴重な文化遺産だ。

彦根城は彦根藩・井伊家歴代の城であるが、井伊家の出自は遠江国井伊谷[いいのや](現静岡県浜松市)である。井伊家は藤原氏につらなる地方豪族で、戦国時代には今川義元の配下にあった。後に彦根藩の始祖になる井伊直政は、少年時代に徳川家康に見出され、以来生涯を通じて献身的に家康に仕えた。家康の信頼がもっとも篤い家臣であり、人柄は豪胆にして誠実。その戦いぶりは勇猛であった。直政が率いる部隊は全員が赤色の具足をつけて戦ったために「井伊の赤備[あかぞな]え」と呼ばれ、敵に畏怖された。

直政の勇猛果敢さが、いかんなく発揮されたのが天下を分けた関ヶ原の戦(1600年)である。唯一の徳川直臣部隊として一番槍を入れた直政の活躍は目覚ましく、石田三成率いる西軍は散り散りに敗走する。家康は逃げる西軍の追討をさらに直政に命じ、三成の居城、佐和山城を包囲して攻めおとす。その軍功が認められて直政は佐和山城と三成の旧領を引き継いだ。しかしなお家康は特命を与えた。豊臣氏や京の朝廷、西国の大名への牽制である。関ヶ原で雌雄を決したとはいえ、大坂城は無傷で時局は安定に至らず、家康には西国の動きを封じておく必要があった。

中世以来、都にも近い近江国は天下を狙う戦国の武将にとって重要な戦略の拠点であった。「琵琶湖周辺には大小1300もの城が築かれた」(安土城考古博物館)というのも近江国が戦略上いかに重要であったかを示している。とくに湖東地方は琵琶湖の水路、さらに中山道や北国街道につながる交通の要所であった。佐和山城もやはり、豊臣秀吉が信頼を寄せた三成に東国の家康らの動きを監視させておくのが目的であった。その佐和山城と彦根山は目と鼻の距離に、向かい合うようにある。

彦根城の築城は家康の指示だったが、直政は関ヶ原の古傷がもとで1602(慶長7)年に42歳で亡くなり、その子直継(直勝)が遺志を継ぐ。しかし直継は13歳の幼少ゆえ、築城の采配は直政の腹心、家老木俣守勝[きまたもりかつ]に託された。築城の地を彦根山に定めた経緯は『徳川実紀』にこう記されている。「旧主直政磯山に城築かんと請置しかど 磯山はしかるべしとも思われず 沢山城より西南彦根村の金亀山[こんきさん]は湖水を帯びてその要害磯山に勝るべし」。

彦根山は、大きな亀が琵琶湖に顔を伏せて水を飲む姿に似ていることから金亀山の別名がある。平安時代から観音霊場として多くの人びとの信仰を集めていた。山の北側には琵琶湖の内湖[ないこ]があって天然の堀の役を果たし、城を築くには格好の地形であった。

こうして、1604(慶長9)年から彦根城の築城工事がはじまる。『彦根市史』によれば、着工から2〜3年後に天守は完成するが、工事はその後中断され、城下町を含む城郭全体がほぼ整うのは1622(元和8)年のことだ。着工から完成まで約20年の歳月を要したと市史には記録されている。
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『佐和山合戦図絵馬』。関ヶ原の戦の後、井伊直政は石田三成の居城を攻撃した。その合戦のようすを描いた絵馬には、佐和山城の天守が伝承どおり五層に描かれている。(西明寺蔵)
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『関ヶ原合戦屏風』。江戸期に制作された6曲1隻の屏風で、徳川家康率いる東軍、石田三成率いる西軍合わせて約20万人の兵が天下を分けて戦った。東軍の先鋒となったのが井伊直政の「赤備え」軍団で、屏風にはその活躍ぶりが描かれている。(井伊家本、彦根城博物館蔵)
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石田三成の居城だった佐和山城大手門跡。中央奥の山が佐和山で、直政らの攻撃で山頂部は徹底的に打ち壊された。
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彦根港から望む彦根山はなだらかな丘のように見える(写真右端)。彦根を築城の地とした理由の一つは琵琶湖の水上交通の利便性だった。
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3代藩主直澄の「朱手綱塗鞘大小拵[しゅたづなぬりさやだいしょうこしらえ]」。赤備えは刀の鞘にまで及んで徹底していた。(彦根城博物館蔵)
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西国を睨[にら]む井伊家の居城
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琵琶湖側の上空から見た彦根山。左手前の辺りは藩政時代には松原内湖があり、直接、船が琵琶湖に出入りしていた。(写真提供:彦根市)
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玄宮園[げんきゅうえん]と天守。玄宮園は4代目藩主直興が造営した下屋敷を再整備したもの。建物部分を楽楽園、庭園部分を玄宮園と呼び、広大な面積をもつ池泉廻遊式庭園。
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彦根藩藩祖、井伊直政。徳川家康を恩人とする直政は、生涯献身的に家康を支えた。歴代藩主もそれを家訓とし徳川家に忠誠を尽くした。(彦根城博物館蔵)
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直政が関ヶ原の戦で着用したといわれる朱塗具足。直政は、戦国時代の最強軍団と怖れられた武田信玄配下の勇猛な家臣、陣立て、兵法とともに「赤備え」も受け継いだ。(彦根城博物館蔵)
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