Blue Signal
May 2007 vol.112 
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Essay 出会いの旅
山下裕二
1958(昭和33)年広島生まれ。
美術史家。明治学院大学教授。
著書に「岡本太郎宣言」(平凡社)、「日本美術の二〇世紀」(晶文社)ほか。故・岡本敏子氏と親交が深かった。赤瀬川原平氏と各地を巡る「日本美術応援団」の団長としても活躍。
水上勉の「雁の寺」、そして応挙の孔雀
週刊誌の対談取材で、京都の相国寺塔頭・瑞春院を訪ねた。作家・水上勉(1919〜2004年)作「雁の寺」のモデルとなった塔頭。水上氏は、九歳から十三歳までここで小僧として修行し、その間の過酷な体験を、後に直木賞を受賞するこの小説に昇華させた。同行した歌手の石川さゆりさんは、晩年の水上氏と深い交遊があったらしく、この寺をはじめて訪ねる感慨があったようだ。あらためて彼女の「飢餓海峡」を聴きたくなった。

門前の看板に「水上勉先生ゆかりの雁の寺」と謳っているぐらいだから、一応、「雁」の襖絵はある。普段、一般公開はしていないが、季節限定の公開では見られるようだ。今回、私もはじめて奥の部屋にある雁の襖絵を見たが、それよりも印象的だったのは、その手前の部屋にある、今尾景年(1845〜1924年)による孔雀の襖絵。
保存のため、残念ながら、この金地に水墨で描かれた孔雀の絵は、ビニール?で覆われている。今尾景年は円山応挙以来の、円山四条派の伝統を引く絵師で、明治のころには大家として遇されていた。その後、そんなありかたの絵師の存在は、美術史の公約数的には忘れられ、この孔雀もぞんざいな扱いを受けたようだが、瑞春院でなんとか健在ではある。

この景年による孔雀、師匠の師匠の、それまた師匠である応挙の孔雀を、愚直に再現しようとした作だ。江戸から明治にかけての京都画壇では、いわゆる粉本(弟子にとってのお手本)が継承され、それをまずは忠実に模写することから画塾教育がはじまったから、景年は遠い先達としての応挙を、当然、仰ぎ見ただろう。あの素晴らしい大乗寺の襖絵を実見したかどうか、定かではないが。

瑞春院の襖に描かれた景年の孔雀の先祖、円山応挙の極めつけの孔雀は、京都から特急と各駅停車を乗り継いで約三時間、山陰本線の香住駅からほど近い大乗寺にある。「応挙寺」と通称されているこの寺では、方丈室中、応挙の孔雀の襖絵をはじめとして、一門が総力をあげて、壮大な障壁画による空間をつくり出している。とくに、二階にある長澤蘆雪による「群猿図」は、私が最も好きな絵だ。十年近く前、この襖絵の前で炬燵 にあたりながら蜜柑を食べた経験が忘れられない。
ところで、この日本中でもまったく稀有な、江戸時代の障壁画空間が奇跡的な保存状態で遺っている寺も、とうとう、オリジナルの襖絵を収蔵庫に入れて、お堂にはレプリカの襖をはめる、という計画が着々と進んでいるらしい。いま、応挙が弟子を動員して構想した当初の空間は、かろうじて体感することができるが、もうしばらくすれば、そうもいかなくなるだろう、すでに収蔵庫は完成し、これから徐々にお蔵入りし、レプリカと入れ替わっていく予定なのだ。

水上勉氏は、この大乗寺の応挙の孔雀を見たことがあるんだろうか。彼が小僧時代に見つめた今尾景年の孔雀は、まさに応挙の倣製品だった。「雁の寺」というのは、実は朧気な記憶で、実際には彼が見ることができなかった「雁の襖」は奥の部屋にあったのだが、その後、昭和五十六年にあらためて瑞春院を訪ねた水上氏は、実は「雁の襖」があったことに驚いている。このへんの話は錯綜しているが、水上氏がご存命だったら、彼の実体験と妄想の絵模様を、それとなく聞いてみたかった。

応挙とその遠い弟子が、あるいは若狭出身の水上氏と京の禅寺が、絵を通して淡いコミュニケーションを結ぶ。どの人にも、私がちょっと説明して、じっくり見せてあげたかった。
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