Blue Signal
March 2007 vol.111 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
花に会う緑を巡る
特集[平安の都が残した伝統の京町家] 千二百年の時を記憶する町
機能と洗練を極めた都人の住まい
町家文化を守り、育てる人々
むくりの瓦屋根、紅殻の出格子に虫籠窓、
狭い間口に、家の奥までつづく通り庭。
「うなぎの寝床」と形容される京の町家の佇まいは
寺社仏閣とともに語られる歴史的景観であり、
訪れる人びとを惹きつける。
平安の都に暮らす住み手の工夫と
大工の知恵が育んだ京町家を訪ねた。
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五条大橋からの鴨川の眺め。大通りを外れて小路を歩くと町家の佇まいが残っている。現存する伝統的な町家は市内に約2万数千軒。
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年間約5,000万人の観光客が訪れる京都。それほど大勢の人びとを惹きつける京都の魅力を一言でいうと、大都市でありながら千年以上の歴史的景観を今にとどめているところだろう。碁盤目状の通りや町家の佇まいも、平安京遷都以来の歴史と人びとの暮らしを伝える貴重な文化だ。

長岡京から山城国(現在の京都市)に都が遷され、桓武天皇によって平安京と命名されたのは794(延歴13)年。中国の長安と洛陽を模した都は、東西約4.5km、南北約5.2kmの範囲を計画的に造られた。都の中央を、幅85mの朱雀大路が南北に真っすぐ貫き、北の大内裏と南の羅城門を結び、大路を境に右京と左京を対称に配置。南北には朱雀大路のほか大宮大路や西洞院、東洞院など9つの大路、東西には一条から九条など11の大路が通り、都市全体が縦横の大路で整然と区画されたのが平安京の姿であった。

このような縦横の区割りを条坊[じょうぼう]という。東西の列を「条」、南北を「坊」というが、大路で囲まれた一辺を百八十丈(550m)とする一画を坊ともいい、一坊を縦横の小路で十六分割したものが「町[ちょう]」という地積だ。一坊は十六町で、一町の規模は路幅を除く一辺が四十丈(約120m)の区画で、一町をさらに32分割して細分化したものを一戸主[ひとへぬし]の敷地とした。一戸主はおよそ130坪。ちなみに町という字は「田」に「丁」と書いて、農耕者1人に供する田地がもとの意味だとされる。

平安京は純粋に政治的な意図で造られた、いわゆる官庁街だった。塀で囲まれた街区の中に官吏たちの生活があり、通りは閑散としていた。ただ東市に51、西市に33の官設の市が立ち、ここだけは物を売る小屋が賑やかに並んだ。この物売り小屋を「店屋[まちや]」と呼び、貴族も庶民もこの市を利用した。公設の市はやがて庶民の旺盛な商業活動に押され、平安時代も中期になると都は当初の官庁・祭礼都市から商工業都市に性格を移し、街区の塀は取り壊されて通りに店屋が並び、商売に成功した者たちは土地を手に入れ、商いを兼ねた住居を建てはじめる。

平安時代後期の「年中行事絵巻模本」には、通りに面した家の中から祇園御霊会(祇園祭りの前身)の行列を見物したり、店先で物を商う当時のようすが描かれている。そこに描かれた住居が町家のはじまりだ。それは土中に柱を立てただけの小屋で、板葺きの屋根は風で飛ばないように石や木材を置いている単純な構造だが、店と居間と土間の住居が隣家とくっついて並んでいる景観は、現在の京町家に通じる原形だ。ただ、その後11年に及ぶ応仁の乱で都全体が焦土と化し、家々はことごとく消失する。

戦禍の後、都の復興に尽力したのが豊臣秀吉である。秀吉は大内裏の跡地に聚楽第[じゅらくだい]を設け、公家町や武家町、寺町をつくり、さらに市街地の土地を有効に活用するために都市改造を行う。南北に小路をいくつも通して町の区画を短冊型に細分化し、再建される家々には間口の広さに応じて税を課す。京町家の独特の「うなぎの寝床」はこの課税に対抗する生活者の知恵だった。この町家の生活者こそ「町衆[まちしゅう]」だ。町衆は防犯や行政代行、祭礼をしきる町単位の自治組織であり、祇園祭の担い手でもあった。京都の町並景観をつくり、文化を育んだ最大の功労者だった。そんな町衆たちが暮らした住まいが町家で、市内各所に残るおよそ2万数千棟の佇まいがいかにも京都らしい歴史的風情を醸し出している。
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出格子と駒寄せ、ふっくらと曲線を描くむくり屋根に卯建。平安時代には市が立った下京区新町通には今も町家が数多く残っている。
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平安時代からつづく伝統の祇園祭。各町内で鉾建て、山建てが行われる。写真は郭巨山[かっきょやま]。京に住む人々の自立心と心意気が伝統を守っている。
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町割の変遷/平安京が造られた当初は一町の地積を塀で区割りされた1区画が町の単位だった。やがて塀は取り払われ、通りとの関係を深めるにつれ、町割りも姿を変えていく。(『甦る平安京』図録より:京都市歴史資料館)
千二百年の時を記憶する町
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大工棟梁「田中吉太郎家文書」に残る江戸時代の町家の図面。
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