Blue Signal
July 2006 vol.107 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
花に会う緑を巡る
Essay 出会いの旅
一柳 慧
作曲家・ピアニスト。神戸生まれ。10代に2度毎日音楽コンクール(現日本音楽コンクール)作曲部門で第1位受賞。19歳で渡米、ニューヨークでジョン・ケージらと実験的音楽活動を展開し、61年に帰国。フランスで文化勲章(85年)を受賞、京都音楽大賞(90年)、サントリー音楽賞(02年)、紫綬褒章(99年)、旭日小綬章(05年)など受賞多数。作品は文化庁委嘱のオペラ『モモ』(95年)のほか、6曲の交響曲、室内楽作品、また『邂逅』などの雅楽、声明を中心とした大型の伝統音楽など多岐にわたる。現在、財団法人神奈川芸術文化財団芸術総監督。また、古代アジアおよび正倉院の復元楽器を中心にしたアンサンブルとコンサート・シリーズ「千年の響き」の芸術監督を務める。
北陸路の出会い
乗物の好みは人によってさまざまであろうが、飛行機、汽車、自動車と並べたとき、私にとって愛着があるのは汽車である。私は2才から東京住まいだが、小学生の頃、父方の親戚が神戸の須磨に、母方が住吉に住んで居たので、夏休みや冬休みに当時の特急「つばめ号」や、「かもめ号」でそこへ出掛けるのがなによりの楽しみであった。その頃の「つばめ号」や「かもめ号」は神戸が終点であり、東京から神戸迄8時間37分で運行されていたが、それが当時の最速の列車であった。電化されていたのは東京―沼津間だけの時期である。私が今も汽車の旅や時刻表を見るのが好きなのはその頃培われたものであろう。

ところで同じ場所でいくつものちがった出会いがある場合、そこは特に思い入れの深い場所になる。私にとってそのような街のひとつに金沢がある。私の長年の親しい友人であった指揮者の故・岩城宏之氏が、1988年に金沢にオーケストラをつくった。オーケストラ・アンサンブル金沢である。私は岩城さんの指名でその初代のコンポーザー・イン・レジデンスになった。日本語で言えば座付き作曲家ということになろうか。
オーケストラが作曲家を抱えるというのは日本で初めての英断であった。このオーケストラは、いろいろな国の外国人と日本人プレーヤーの混成チームで編成されており、発足当初から性格が国際的で明るく、作曲家に対しても協力的で、私は金沢へ出掛ける度に、メンバーとの出会いを楽しみ、交流を深めることができた。そして2001年に岩城さんの肝煎で、金沢駅前正に0分の所に、オーケストラの拠点となる石川県立音楽堂が完成した。この好立地条件によって、それからの私の金沢通いは、越後湯沢からほくほく線が直接乗り入れていることもあってすべて列車になった。この汽車の旅は、山と海の両方が見られ、冬と夏では雪深い銀世界の風景が、緑鮮やかな景色へと一変することで何時乗っても風情がある。

そして2004年に今度は美術の分野で建築的にも注目度の高い金沢21世紀美術館が市心に誕生した。そのことで更に出会いが拡がることになった。私は若い頃、しばらくニューヨークに居たのだが、あちらでは美術館で音楽会が行われたり、音楽会場に美術展が併設されたりして音楽と美術の交流が盛んであった。帰国後、日本でもこういうかたちの相互交流を実践できたらという思いから、1980年にミュージック・イン・ミュージアムというシリーズを東京の西武美術館で立ち上げ、以来いろいろな美術館で音楽公演を続けてきた。
そして昨年秋、はからずも金沢21世紀美術館で開催されたドイツの巨匠ゲルハルト・リヒター展の折、会場で音楽を、という話をいただき、この新設の美術館でも私の師のジョン・ケージや私自身のピアノ曲の演奏を行う機会に恵まれた。

ところでお隣りの福井県も音楽に力を入れているところである。毎夏開かれているハープ・フェスティバルがあり、90年代にはそれと連動してハープ音楽の国際作曲コンクールも行われ、私も2度審査員を務めた。そして今、敦賀とも音楽的つながりが生まれつつある。私は今年の2月に3作めとなるオペラ「愛の白夜」(台本・辻井喬)を発表初演した。オペラの内容は第2次大戦中、難民となってリトアニアに逃れてきたユダヤ人達を、日本の外交官杉原千畝が日本通過のビザを発給し、6,000人ものユダヤ人の命を救った話に基づいている。その際ユダヤ人達が神戸に入国したことは知られているが、実は敦賀にもかなりの数のユダヤ人が到着し、敦賀の人達が暖かく迎え入れていたという事を、横浜で上演した私のオペラを、わざわざ敦賀から見に来て下さった人達の話により知った。この関係者の皆さんとの出会いもこれから楽しみにしているところである。

私はこれからも北陸路のいろいろな場所で、芸術とのかかわりが一層深まってくることを期待している。
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