Blue Signal
May 2006 vol.106 
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特集[季節を織り込む松江の茶と菓子] 暮らしに息づく「不昧公[ふまいこう]好み」
伝統を受け継ぐもてなしの心
茶の湯の精神を吹き込む松江ブランド
島根県松江市は、京都、金沢と並ぶ菓子どころ。
松江藩7代藩主・松平不昧[ふまい]公が極める茶の湯とともに
和菓子の文化が250余年の時を経て、いまも人々の生活に息づいている。
作法や形式にこだわることなく、誰もが気取らずに茶をふるまい、菓子を楽しむ。
そんな、大らかだが洗練された菓子文化の残る松江を訪ねた。
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月照寺は9代にわたる松江藩主の菩提寺で、不昧公廟門からは、松江城天守閣が遠望できる。約1万坪の境内には四季の花木が自生し、歴代藩主の廟門を飾る木彫は各時代を代表する名工の手になり、江戸時代の建築美術も鑑賞できる。
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春の風が松江城を囲む堀川の川面を撫でていく。水上をのんびり進む遊覧船。重厚な門構えの武家屋敷が並ぶ塩見縄手辺りの川堤から仰ぎ見る五層の天守閣の姿も、青空に映えて晴れやかだ。宍道湖に臨む松江は松江藩松平家歴代の城下町の風趣を色濃く残し、人びとの暮らしのなかに藩政時代に育まれた独特の文化がいまも息づいている。

松江の文化を代表するのは、茶の湯と和菓子だ。とにかく抹茶をよく嗜み、四季折々に菓子を愉しむ。堅苦しい流派や作法にこだわらない。稽古事でもなく、日常の節目節目に必ず抹茶が登場する。寝覚めに、朝食後に、正午に、三時に、夕食後に…ポットから湯を注ぎさらさらと茶を点てて気軽にいただくのが松江ではごく当たり前で、緑茶やコーヒーを飲む感覚である。茶室として部屋に炉をきる家も少なくなく、茶の湯を子どもたちに教える幼稚園もあり、訪問客は先々で「どうぞ」と抹茶をふるまわれる。

普段の生活に、茶の湯がこうまで浸透しているところは珍しい。そして、松江の文化を語る上で欠かせないのが松江の人々が「不昧公」「不昧さん」と親しみ呼ぶ松江藩7代藩主の松平治郷[はるさと]公である。17歳で藩主になり、破綻寸前の財政を立て直し、殖産に努めて全国屈指の豊かな藩に甦らせた名君は、希代の教養人だった。禅を深め、諸学に通じ、書、画、和歌、俳句、陶芸など多彩に嗜み、どれもが第一級の素質だった。とりわけ茶人として最高の名声を馳せた。道具自慢と贅に偏っていた茶道を批判し、千利休の侘茶の原点に返り、相応の茶、心を修める茶、不足を知る茶の道を論じ、自ら「石州流不昧派」を創始した。不昧とは公の号で、禅の高僧が説く「不落不昧」にちなむ。

不昧流の心得は「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」。しかも定石やしきたりに頓着しない。そうして、武士の嗜みであった茶の湯は、松江では町衆の間でも広く嗜まれるとともに、菓子の文化を育んでいく。茶道では茶が主役、菓子は脇役の関係で、茶を引き立たせるのが菓子の本分だ。「不昧公好み」という言葉が松江では頻繁に使われるが、それは菓子にも当てはまることで、不昧公が好んだ銘菓がいまもつくられ、世代を問わず好まれている。

菓子の歴史は垂仁天皇の神代の頃まで遡るほど古いといわれるが、そもそもは字の通りに「果物」であった。棗[なつめ]や杏[あんず]、無花果[いちじく]、葡萄などを自然の甘味、蜂蜜や甘葛[あまずら]で味付けし乾燥したものが食されたようで、それらが奈良時代以降の外来の技術や様式と交わって変化し、発展したとされる。

茶事に菓子が伴うようになったのは江戸時代の中期以降といわれる。菓子司といった茶菓子をつくる専門店も江戸時代に生まれ、今日、茶菓子として供されるほとんどが江戸時代中期以降にできあがった。砂糖や卵、餡[あん]などの菓子材料が入手しやすくなったことが挙げられるが、茶事が盛んになるとともに、菓子は茶の風味を生かし、口当たりがさらりとして口中で溶け、後味がいつまでも残らないといった茶の味に合わせることが求められた。

やがて茶事の風趣に合わせ、季節を詠み込んだ和歌から一節をとり菓子の名にするなど鑑賞を尊び、見た目にも花鳥風月の優雅な趣向を凝らすようになる。こうして味覚の五味だけでなく、五感に訴える四季折々の風流を表現しようとするのは日本ならではの文化だろう。
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藩政時代の面影を色濃く残す塩見縄手。松江城を囲む堀川には、遊覧船がゆっくりと航跡を残す。
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不昧公が堀川を舟で通ったという譜門院。境内にある「観月庵」で不昧公はたびたび茶事を催した。二帖の席に一間の深い庇をつけた内露地を賞したとされ、二枚の障子を開くと東の空に昇る月を眺めることができる。
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大名茶人・石州流不昧派の祖、不昧公の愛蔵品や好みの茶道具。
〈写真左から〉『竹一重切花入 銘 晩鐘』不昧公作、『古楽山刷毛目茶碗』作者不詳、『大菊棗』原羊遊斎作、『面取釜』下間庄兵衛作。(すべて田部美術館所蔵)
暮らしに息づく「不昧公[ふまいこう]好み」
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月照寺の茶室からは織部灯籠と棗型手水鉢が鑑賞できる。参道脇に湧き出でる水は「茶の湯の名水」といわれ、名水百選に指定されている。
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「明々庵」は不昧公がよく茶事を催した茶室。元は殿町に建てられていたが、現在は松江城の北、赤山の台地に移されている。茅葺きの厚い入母屋造りで、茶室の床の間は浅く、席には中柱もなく軽快な趣き。定石に頓着しない不昧公の好みがうかがえる。
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【松江藩7代藩主 松平治郷公】
『不昧公寿像』(月照寺所蔵・部分)
1751(宝暦元)年、江戸赤坂に生まれる。17歳で松江藩7代目の藩主となり、窮乏していた藩の財政を立て直すために改革を推し進めた。倹約に務め、治水事業や新田開発を行って財政基盤を整え、薬用人参、ろうそく、砂鉄の生産、漆工や陶器などの工芸を振興し、財政を建て直した。茶人の号を「不昧」という。
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