Blue Signal
March 2006 vol.105 
特集
駅の風景
うたびとの歳時記
大阪駅進化論
天守閣探訪
うたびとの歳時記 吉野山のシンボル金峯山寺・蔵王堂を望む上千本からの遠景。「これはこれはとばかり花の吉野山」(貞室[ていしつ])と詠われたように、尾根から谷を埋め尽くし、爛漫と咲き誇る様はみごとである。
めぐり来た春の一日、
人々は咲き誇る桜を求め
花の名所へと繰り出す。
満開の花々の下に集い、仰ぎ見ることは、
この季節のひとつの喜びといえよう。
近世中期文学の逸材として知られる建部綾足[たけべあやたり]は、
桜の聖地・吉野山への花見に際して
その感慨を旅情豊かに詠っている。
いつの時代も、人々を魅了してやまない
観桜の風習を、句とともにたどってみた。
花に酔う春の習わし
弓なりに長く連なる日本列島は、南から春の宴の季節を迎える。春の桜は花王といわれ、淡紅白色の花容は古来より日本人に親しまれてきた。満開から散り終わるまでの花の期間は短く、その散り際の潔さによって桜は一層愛惜され、人々は束の間を花の下に集うのである。この「花見」は、もとは桜とは限定されていなかった。万葉集の時代には、中国文化の影響を受け、花の観賞も中国伝来の梅が中心であり、多くの歌に詠まれている。遣唐使の廃止以降、独自の文化を形成していく上で、日本固有の花が好まれ出したのか、万葉集以降代々の勅撰集[ちょくせんしゅう]には、桜は春の代表的景物として盛んに登場するようになった。

観桜の宴は、812(弘仁3)年に嵯峨天皇が宮中で催したのが始まりとされ、『日本後紀[にほんこうき]』(840(承和7)年)にその記述がある。また『凌雲集[りょううんしゅう]』(814(弘仁5)年)にはその時の詩が収められている。桜の散る様子は、もののあわれを好んだ当時の貴族や武士に賞され、以後桜の花見はいっそう盛大になっていった。中でも、1598(慶長3)年の豊臣秀吉の「醍醐の花見」は豪華を極め、秀吉は約1カ月半のうちに京都伏見の醍醐寺に700本の桜を植え、花で埋めつくしたという。上流社会の文化であった花見も、江戸時代には庶民の間でも盛んとなり、春光のもとに宴を張る風習は、今日へと受け継がれている。
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4月の声を聞く頃、山裾の下千本から咲き始めた桜は、日を追って中千本・上千本・奥千本へと山を登っていくかのように順に開花する。高度と気温差が相まって花期は長く、変化に富んだ花見が楽しめる。
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吉野山の桜の多くは、シロヤマザクラに分類される野生種。若葉を広げると同時に淡紅白色の花をほころばせる。
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輿[こし]に乗った秀吉とそれを取り巻く侍や僧の姿、人々が酒を酌み交わす様子などが描かれた六曲一双、右双・左双の2双から成る「重要文化財『豊公吉野花見図屏風』」。秀吉の権勢をうかがうとともに、桃山時代の風俗を知る上でも興味深い。(写真:左双/細見美術館蔵)
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太閤秀吉の花見の本陣となった吉水[よしみず]神社。もとは吉水院という、金峯山寺の格式高い僧坊であった。世界遺産に指定されている。
花を見に遠くも来りよしの山 綾足
旅に生きた文人画家
建部綾足は、50余年の生涯を漂泊にさらしながら、俳人、歌詠、画家、国学者、伝奇小説家など、多岐にわたって活躍した。『西山物語』や『本朝水滸伝』の作者としても名高く、日本近世文芸における異才とされる。1719(享保4)年、弘前藩家老喜多村家の次男として江戸で出生。幼名は金吾、元服後は久域[ひさむら]と称した。幼い頃より文学の素養があり、「三里の間をそゞろ歩きしつつ、漢詩七言絶句一百首を作り、同行の人々を驚かせた」という逸話も残る。幼少期を弘前で過ごすが、1738(元文3)年綾足20歳の時、青春の過失によって家郷を出奔。以後、全国を放浪し続け、わずかに江戸を定住の拠点と定めてはいるものの、文字通り旅の人生を送った。

綾足の句作は、伊勢派の平明さを基調にしながらも、画家としての鋭敏な観察眼や巧みな描写力によって、独自の抒情世界を表現したとされる。冒頭の句は、1747(延享4)年、大和桜井で結庵の準備をしていた頃、同門の俳人を誘って吉野へ花見に出かけた折に詠まれたもので、俳諧の修業と行脚の記録を綴った文集『紀行』の中に収められている。この作品は半生の自伝的趣を持っているとされ、句の前には「おもひ出るさへはるかなるに、感情又むねにせまりて」とある。眼前に広がる爛漫の桜は、遠く離れた故郷の風景とともに、なつかしい思い出をまた呼び起こしたことであろう。綾足は二度と弘前に戻ることなく、生涯を終えている。
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うたびとを魅了する信仰の桜
桜の名勝地として知られる奈良・吉野山。麓の下千本から奥千本まで、春は3万本の山桜が山全体を桜色に染める。吉野の桜には、山岳宗教と密接に結びついた信仰の歴史があるという。今から約1300年前、修験道の開祖役行者[えんのぎょうじゃ](役小角[えんのおづぬ])が、大峯山で感得した蔵王権現を桜の木に彫り吉野山に祀ったことから、桜は御神木として手厚く守られるようになった。同時に、蔵王権現を本尊とする金峯山寺[きんぶせんじ]への参詣も盛んになり、桜の献木、寄進がしだいに増え、やがて山や谷を桜が埋めていった。

吉野で絢爛たる花見を催したのも、当時絶頂の勢力を誇っていた太閤秀吉である。1594(文禄3)年、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家らの武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5,000人の供揃えで吉野山を訪れた。その華やかな宴の様子は、『豊公吉野花見図屏風』に描かれている。また、吉野山の絶景は多くの歌人たちを惹きつけ、西行は深い山の中に庵を結び、その西行を慕った芭蕉は、2度この地を訪れている。綾足が吉野をめざしたのは、人生を旅になぞらえた芭蕉を意識してのことであろうか。幽遠な桜景色は、遙かな時を経た今も、花に魅せられた人々の想いを静かに物語っている。
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『俳諧百一集[はいかいひゃくいっしゅう]』(1765(明和2)年尾崎康工[おざきやすよし]編)に収められている綾足の画像と句。凉袋[りょうたい]という綾足の俳号が記されている。(大阪市立図書館蔵)
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