Blue Signal
January 2006 vol.104 
特集
駅の風景
うたびとの歳時記
大阪駅進化論
天守閣探訪
大阪駅進化論 梅田ステンショから大阪駅へ---巨大ターミナルへの変遷(4)
今回は、本格的なターミナルとしての
機能を発揮し始めた3代目を中心に、
4代目大阪駅までの歩みを紹介する。
大阪都市改造計画の一翼を担う
輸送量増大による設備拡張で1901(明治34)年に完成した2代目大阪駅は、日本銀行大阪支店、泉布観(造幣寮の応接所)と並んで「大阪三大名所」と呼ばれるほどのすぐれた石造り洋風建築物だった。しかし、1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発すると、軍事輸送等による貨物輸送が急激に増加し、大阪駅と駅周辺施設は再び機能拡張の必要性が生まれた。

そこで大阪駅を旅客専門駅とし、貨物駅は移転、駅と周辺路線を高架化するなどの改良計画が立案された。ちょうど大阪市も御堂筋をはじめとした大阪駅前の開発整備事業に着手した頃で、都市計画調査会は幹線道路の整備、市電網の整備、港湾の改良などと併せて、大阪駅改造整備の項目を含む大規模な都市改造計画案を作成した。1926(大正15)年から内務省、鉄道省、大阪府、大阪市による協議が重ねられ、「大阪駅付近都市計画事業」としてまとめられたのは1928(昭和3)年のことだった。
幻となったステーションホテル
3代目大阪駅は、駅施設および、上淀川と下淀川橋梁との区間を高架化し、駅の高架下には南側に荷物一時預り、食堂、各種旅行用品や、みやげ物店を集めた商店街など、北側に駅務施設を設置することになった。

また、人力車からバス、自動車利用へという時代の流れのなか、駅前広場も自動車利用を中心とする設計となり、歩道と車道が分離されたことも、3代目大阪駅の特徴といえるだろう。

1934(昭和9)年、上淀川、下淀川間の高架複線化が完成し、東海道線と城東線の高架線運転を開始。ホームの工事も順次完成し、1936(昭和11)年12月に大阪駅高架化は完了して、いよいよ駅本屋の工事を残すのみとなった。

駅本屋は、地上5階建てで、3階から5階はホテルとして設計された。このホテルは1940(昭和15)年に予定されていた日本でのオリンピック開催に合わせて計画されていたもので、3フロア合計で227室、各種設備が調った本格的ホテルだった。

ところが、多くの期待を集めながらも日中戦争の影響による資材不足のため工事は中止となってしまう。
戦後復興を牽引した3代目大阪駅
結局、3代目大阪駅は建設中の3階床部分に防水工事を施し仮屋根として、未完のまま1940(昭和15)年に開業。ホテル計画は断念することとなった。

未完となった3代目大阪駅だが、利用客の数は年々増加していた。1933(昭和8)年には7万人だった一日平均乗降人数は、2年後には10万人を超え、1941(昭和16)年には19万人以上となっている。

戦中戦後の混乱や空襲などにより輸送量の増減や駅の利用状況などは大きく変化するが、引揚者や復員兵を運び、復興に向けた建築資材の輸送などによって戦後の復興を牽引したのも大阪駅だった。1946(昭和21)年29万人、翌年は31万人という一日平均乗降客数の増加が、活力を取り戻した大阪を物語っている。

こうして戦後の復興、日本経済の急成長という時代の中、大阪駅は再び大阪の玄関口にふさわしいターミナルとしての整備が望まれた。つまり、現在の4代目大阪駅の誕生となる。
イメージ
1938(昭和13)年頃の、建設中の3代目大阪駅
(『写真で見る大阪市100年』より)
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