Blue Signal
September 2005 vol.102 
特集
駅の風景
うたびとの歳時記
大阪駅進化論
天守閣探訪
特集[用の美] 民衆による民衆のための「民藝」こそが美しい
出雲に脈々と受け継がれる民藝精神
実用一筋の仕事に宿る美、匠たちが残した形と技
神々が宿る国、出雲。
ここには、「民藝運動」の父、
柳宗悦が愛した民藝の心と技が
風土とともに息づいている。
宍道湖の静かな風景のように、
人びとは、敬虔で、慎ましく、誠実に暮らす。
そんな出雲の気風が民藝の手仕事を育み、
いまに受け継がれている。
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日本民藝館は「民藝」の美の認識の普及と新しい生活工芸の振興をめざす民藝運動の本拠として開館した。
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「民藝」とは、柳宗悦(1889〜1961年)が陶芸家の濱田庄司や河井寛次郎らとともに提唱し、日本人の美意識に多大な影響を及ぼした意識革命である。

駒場東大近くの閑静な住宅地の一画に柳の民藝運動の拠点がある。「日本民藝館」。瓦屋根に白壁土蔵づくり風の二階建ての純和風建築は、実業家・大原孫三郎らの寄付によって1936(昭和11)年に開館。来年70周年を迎える館内には柳が自ら全国津々浦々を歩き、自らの眼で選び蒐集した数々の民藝品が並んでいる。収蔵品は約1万7,000点。焼き物、塗り物、染め物・織物、民画、家具、彫刻、和紙、団扇や自在鉤、蓑[みの]や籠[かご]といったものもある。時代も産地も用途もさまざまだが、どれも土地の風土に根ざし、民衆の暮らしのなかで日常的に用いられてきた品々だ。

質素で素朴で、無愛想なくらい飾り気はないが無垢の慎ましさを湛えている。向き合っていて好ましく、誠実で美しい。柳は、それまでまったく誰も顧みなかった名もなき民衆がつくり、民衆の普段の生活に用いられるもののなかに「用の美」を認め、光を照射した。「それは既成の価値観にとらわれない、鑑賞のための貴族的で趣味的な美と相対する新しい美の発見であり、新しい美の基準、思想です」。学芸員の杉山享司さんは民藝の本質をそう説明する。

柳は、日常の生活道具のなかに潜む美しさを見い出した最初の人で、「民藝」とは「民衆的工藝」の略である。1925(大正14)年に、同好の濱田庄司と河井寛次郎の3人で木喰仏[もくじきぶつ]の調査に向かう汽車の車中、彼らの蒐集品の「美」を語るために思いついた新造語だ。雑誌『民藝』のなかで、柳は民藝の趣旨をこう記している。

「民藝とは生活に忠実な健康な工藝品を指すわけです。(略)吾々の日常最もいい伴侶たらんとするものです。使いよく便宜なもの、使ってみて頼りになる真実なもの、共に暮らしてみて落ち着くもの、使えば使うほど親しさの出るもの、それが民藝品の有[も]つ特性です。(略)一言でいえば誠実な民衆的工藝、これがその面目です。その美は用途への誠から湧いて来るのです。吾々はそれを健康の美、無事の美と呼んでいいでしょう」。

そして、柳が民藝品に厳しく定めたのが次のような基準だった。「実用性(=鑑賞用ではないもの)」、「無銘性(=作家でなく無名の職人によってつくられたもの)」、「伝統(=先人の技や知識が積み重ねられているもの)」、「地域性(=地域の暮らしに根ざした独自の色や形)」、「複数性(=数多くつくられるもの)」、「廉価性(=誰もが買い求めやすい値段であること)」、「労働性(=繰り返し作業によって得られた技術の熟練を伴うもの)」、「分業性(=数多くつくるため共同作業によるもの)」、「他力性(=個人の力より、風土や自然の恵みによって支えられていること)」。

民藝運動はやがて多くの協力者を得て全国に広がり、いまや日本人の美意識として確立し受け継がれているが、柳が伝えようとしたのは、民藝品でなければ美しくないなどということではない。民衆の暮らしから生まれた日本の手仕事の文化を、正しく守り育てることが、日本の国や人々の生活を豊かにするという警鐘であった。そうして、柳は地方に埋もれた民藝の美を求めて蒐集の旅に出る。

「私はこれから日本国中を旅行致そうとするのであります。(略)その土地で生まれた故郷の品物を探しに行くのであります。(略)日本のものとして誇ってよい品物、即ち正しくて美しいものを訪ねたく思います」(『手仕事の日本』より)。

そして柳が、民藝の「用の美」に魅せられ、仲間らと度々訪れたのが出雲地方だった。1931(昭和6)年以降6度も訪ねている。柳が惹かれ、そこで見い出した出雲の民藝とはどういうものだろう。
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雑誌『民藝』は、柳が1931(昭和6)年に創刊した幻の雑誌『工藝』の流れをくみ、全国の民藝館の情報や各種工芸品の紹介など、柳学の大系を基底に現在も毎月発行されている。2005年7月号で通巻631号。
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「民藝」という言葉は、木喰仏調査のため和歌山を訪れた柳、河井、濱田の3人が車中で考えたといわれる。
上の写真は1949(昭和24)年に富山県城端別院で撮られたもの。左から濱田、柳、河井。
民衆による民衆のための「民藝」こそが美しい
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民藝運動の機関誌、雑誌『工藝』。
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『手仕事の日本』。柳が日本全国を歩き、その土地土地で生まれ、平常の生活で用いられている品物を地域別にまとめた集大成。増補修正版として1946(昭和21)年に刊行された。(日本民藝館所蔵)
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柳は学習院高等科の卒業の年、学友・志賀直哉らと『白樺』を創刊。ビアズリーやロダンを紹介するなど、西洋美術を志向する哲学青年だった。ある日、柳が所蔵するロダンの作品を見せてほしいと、彫刻家を志す小学校教師・浅川伯教が「李朝染付草花文瓢型瓶(部分)」を手土産に持参した。それをきっかけに、柳は東洋美術、特に工藝へと傾倒していく。
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【木喰上人地蔵菩薩像】
もう一つの転機は、李朝陶磁器を甲州の地に調査していた折、3体の「木喰仏」と出合う。柳のその後の木喰研究は「民藝」の発見へと発展する重要な布石となった。
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