Blue Signal
November 2004 vol.98 
特集
駅の風景
食歳時記
鉄道に生きる
陶芸のふるさと
特集[倉吉] 伯耆[ほうき]国の中心地、倉吉
繁栄を築いた稲扱千刃[いなこきせんば]と倉吉絣[かすり]
江戸・明治の打吹玉川の町並み
鉄と綿の2大産物に独自の工夫を加え
鉄を稲扱千刃[いなこきせんば]、綿を倉吉絣[がすり]に仕立て
全国に流通させて栄えた、商家町倉吉。
その残照を残す白壁土蔵群に、
往時の賑わいを感じつつ訪ね歩いた。
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小鴨川の堤防より倉吉のシンボル打吹山を望む。遠方にそびえるのが大山。
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町を見下ろす小高い山がある。標高204mの打吹山[うつぶきやま]だ。山は貴重な原生林で覆われ、春には桜やツツジの名所として大勢の花見客が訪れる。山麓には市庁舎のほか公共の施設が点在し、山はいつも人びとの暮らしとともにある。

「打吹」とは倉吉の古名で、天女伝説がその由来を説く。その昔、山麓に天女が舞い降りた。村の男に羽衣を隠され天女は妻となり、二児をもうけた。時が経ち、天女は羽衣を探し出し一人天に戻ってしまう。残された二人の児は母を恋しく思い、天に近い山に登って鼓を「打ち」、笛を「吹いた」。その音が夜ごと山から響き、いつしかその山を「打吹山」と呼ぶようになった…と、町の郷土史家が物哀しい言い伝えを教えてくれた。

土地の歴史は古く、奈良時代には伯耆[ほうき]国の主邑[しゅゆう]、政[まつりごと]の中心だった。国庁や国分寺が置かれ、国司として万葉の歌人・山上憶良や大伴旅人らが赴任している。旧跡はいまも市街の外れにある。南北朝時代になると、一帯の領主であった守護大名の山名氏が山上に打吹城を築き、麓に城下町の基礎をつくる。城下の「見日[みるか]」という町(現、田内城跡付近)に定期市をもうけ、町の賑わいは「見日千軒」と呼ばれるほどであったという。

城跡が残る打吹山に登ってみた。胸のすく、大きな風景が目の前にひらけた。伯耆国の主峰・大山が西の天空に堂々の山容をみせる。巨大な裾野は優美に広がり、その先端はやがて日本海と一つになる。東に目を移すと因幡[いなば]国(鳥取市)との国境の山々が幾重にも連なり、南を向けば山深い中国山地である。

打吹山は小さいながら四方を睥睨[へいげい]する。天神川と小鴨川の二つの川に挟まれ、城を置くには理想的な地形である。攻めるには困難で、敵の動きは手にとるように分かる。そして周辺域や、二つの川の流域には実り豊かな美田が広がっていただろう。戦略的な地勢に加え、水運による物資の集散、往来の要衝といった地形的、地理的な有利さが、しだいに町を繁栄へと導いていくことになる。

戦国大名たちは要地をめぐって争った。山名、尼子、毛利…と領主は戦乱の世の常で幾度も入れ替わり、徳川政権下に入ると城は取り壊され、幕府はその後を陣屋町として治めた。陣屋町とは城のない“城下町”のことである。泰平の時代、もはや防備としての城下町の役目は必要ない。倉吉が商工業の町の色合いをより濃くしていくのはこの頃からだ。江戸時代を迎えた日本の国がいよいよ本格的な商品経済社会へと移行していく、そんな時代である。

眼下に眺める山の裾野に、古い町並みが東西に細長くつづく。小鴨川から町の中に取り込んだ用水路である玉川との間の狭隘[きょうあい]な土地に、山陰独特の赤い瓦屋根の家々や白壁土蔵が通りに沿って並んでいる。夕陽の中で、赤瓦の屋根の町はいっそう鮮やかな朱色に映えて美しい。それは、倉吉の歴史を記憶する景観でもある。
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伯耆[ほうき]国の中心地、倉吉
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打吹山から倉吉の町を眺める。右手前の赤瓦の屋根が白壁土蔵群。
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打吹山の麓には打吹公園がある。桜、ツツジの名所として市民に親しまれている。
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倉吉市の西方に広がる丘陵地の東に、国司が政務を司った伯耆国庁跡がある。
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法華寺畑[ほっけじばた]遺跡の再現された四脚門。この遺跡は国庁跡に隣接しており、国庁に関連する役所であったと推定されている。
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