Blue Signal
March 2004 vol.94 
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特集[御手洗] 瀬戸内海航路と御手洗
時代のドラマを描く人物往来
今も歴史が息づく町並みを歩く
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元は御手洗の豪商・多田家の邸宅だったが、現在は「七卿落遺跡」として県の指定文化財となっている。
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御手洗は幕府の公用船が停泊する港だった。公用船には、江戸と長崎を毎年往復するオランダ商館員、将軍の代替わりに江戸へ向かう琉球使節一行、長崎へ送還される漂着外国船などがあった。また、幕末になると、神戸や横浜へ向かう欧米諸国の軍艦・商船なども御手洗に立ち寄った。そんな折りには、住民たちは海岸に押しかけて見物し、上陸してくる外国人と接触する機会もあっただろう。現在からは想像もつかないが、御手洗は国際都市だったのである。

ここでは御手洗を舞台に繰り広げられたドラマの主人公たちに、もう一度登場してもらおう。
シーボルトの診断当時、御手洗に船を寄せた外国人も多い。なかでもドイツ人シーボルトは、江戸参府の途中、御手洗に停泊。数人の病人の求めに応じて診察している。そのなかに17歳の少女がいた。シーボルトは少女の母に対し“食養生と心理的処置、娘の身の処し方を助言し、それを聞いた娘はうれしそうに笑った”と『シーボルト御手洗停泊記』1826(文政9)年6月25日の項に記している。
三条実美[さんじょうさねとみ]と七卿落遺跡[しちきょうおちいせき]幕末維新の期、長州藩は三条実美らの少壮公卿と結んで攘夷親征を企てたが、親幕家の孝明天皇の忌避するところとなり、三条公らは禁足を命ぜられ、長州藩は遠ざけられた。そのため三条公ら七卿は長州勢とともに、1863(文久3)年8月長州に下向し、京都の動勢が好転をつげた翌1864(元治1)年7月13日、再び上京の途についた。がその途中、讃岐[さぬき](香川県)の多度津[たどつ]で「蛤御門[はまぐりごもん]の変」に長州群が破れたことを聞き、急遽船で長州に引き返すことになり、多度津から西風の中、御手洗に着いた。この折り宿泊したのが、豪商多田家の邸宅「七卿落遺跡」[しちきょうおちいせき]である。
坂本龍馬と金子邸1866(慶応2)年1月、坂本龍馬の仲介で長州藩の桂小五郎と薩摩藩西郷隆盛との間で薩長連合が成立。反幕の勢力は強大となり、もはや天下の成行きは旧幕府の体制ではどうにもならなくなった。広島藩も薩長土肥の各藩と連携していくことになった。1867(慶応3)年11月25日、長州軍は奇兵、遊撃、整武などの72隻の軍艦に分乗し、汽船鞠府[まりふ]号に先導されて三田尻(山口県防府市)を出帆し、翌26日夕刻御手洗に来着した。

広島藩からは、これと会合するために、諸兵を総動員。24日、汽船震天丸に乗って広島を出港し、御手洗で長州軍が来るのを待っていた。そして豪商金子邸で長州藩と討幕のための約定「御手洗条約」が結ばれ、その未明、汽船震天丸を先発として長州・芸州[げいしゅう](安芸・現在の広島県地方)の倒幕軍は京阪へ向け出発したのである。この時期、調停役として坂本龍馬も度々来島し金子邸に宿泊したようである。
御手洗は海の交差点だっただけに、多くの著名人が立ち寄った。日本地図を作成した伊能忠敬[いのうただたか]は1806(文化3)年、御手洗に滞在し測量を実施。御手洗出身の星野文平[ほしのぶんぺい]は、維新の志士として京都に上り、高杉晋作らと倒幕運動で活躍。広島藩の蒸気船の購入交渉のため伏見にいる勝海舟に会いにいく途中、かつて切腹した折りの傷口が破れ、1863(文久3)年29歳の若さで没した。そのほか、吉田松陰[よしだしょういん]、中岡慎太郎、大久保利通[おおくぼとしみち]など、幕末・維新の政治を彩った人たちが、御手洗を訪れている。
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【御手洗町緒書付控】
「緒書付」とは業務日誌のようなもので、この控書(左ページ1行目)には「外科ぴいとる ひりつぶ ふらんそばん しいぼると」とシーボルトの名をとどめている。
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激動の幕末時代の裏舞台となった金子邸。ここから一気に江戸幕府終焉へとむかった。現在も金子氏宅。
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【伊能忠敬測量之図】(豊町所蔵)
近代的な測量方法で日本地図を作成した伊能忠敬は、1806(文化3)年、御手洗周辺の測量を実施した。この図はその当時の様子を描いたもの。右側下に描かれているのが、御手洗の町年寄柴屋政助の屋敷で、これが本陣だった。
左下、赤い毛氈に座っている人物の前の黒陣笠を被っているのが伊能忠敬である。
時代のドラマを描く人物往来
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御手洗の港を見下ろす高台に維新の志士「星野文平の碑」が建つ。星野文平は御手洗生まれの広島藩士で、討幕派として高杉晋作らとともに活躍した人物。
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